白山神社の謎・白山神社は白山信仰と一体なのか
【福井県・勝山市、石川県・白山市 2026.10.29~30】
白山神社(はくさんじんじゃ / しらやまじんじゃ)は沖縄をのぞく全国の都道府県に約3000社存在するそうですから、偶然見かけても不思議ではありません。
初夏のころだったでしょうか、京都・京阪三条駅から御所方向へ歩いていたとき建物と建物のあいだに押し込められたように小さな神社がありました。ふと社標(石柱)に目をやると「白山神社」。
それ自体には興味もなかったのですが、表にそれほど長くもない由緒書きがあったので読んだところ、「平安時代末期に加賀白山の神徒僧徒が神輿三基をかついで(朝廷に?)強訴におよぶが聞き入れなかったため神輿すべてを路上に放り出して(加賀へ?)帰山した。その神輿を(放置しておくわけにもいかず?)祀ったのがこの白山神社の起こり」とのこと。
ずいぶん乱暴な、しかも神社の由緒としてはなんとも生臭くて興味をそそられる逸話です。さらに白山比咩神社(加賀にある白山神社の総本社)の社伝にも記録があると注釈を入れています。
この部分を深読みすると、神輿を放り出したことを失態と考えるのではなく(あるいは失態と考えるなら総本社の失態として)この京都の白山神社は由緒ある白山比咩神社の大切な神輿をあずかり祀った正当な白山神社ですと訴えているのでしょうか。なんとも健気ではないですか。
★あとから気づいたことなのですが、神輿をかついで強訴したり強訴が聞き入れられないと神輿を放り出すといった横暴な白山神社の元締め、白山信仰に健気に身をよせる末端の白山神社と信者たち。この両者の乖離(ギャップ)に戸惑ったのが、白山信仰についてもっと知りたいと考えはじめた発端だったかもしれません。
白山比咩神社(石川県白山市)





社殿は大正から昭和と増改築をしているため写真は遠景のみ
石川県神社庁のHPをみると、『霊峰白山を神体山として生きとし生けるものの「いのち」の祖神と仰ぐ 白山比咩大神を奉斎したことにはじまり、創建は約二千百年前の崇神天皇七年(前九一)と伝えられます』
とのことですが、日本古代史において飛鳥時代以前は史料があまりにも乏しく崇神天皇の実存自体が疑問視されているので、なにぶんにも肯首できません。
むしろ白山信仰の起源からみて、修験僧であった秦澄大師が717年にはじめて白山に登頂して開山したとされる伝承の方が信憑性があります。
その開山時の祭神は、神仏習合のもと秦澄は仏教僧ですから大神を崇めるはずもなく、十一面観音菩薩を本地仏(仏の本来の姿)とする白山比咩大権現を祀ったと考えるべきでしょう。
それではいまの白山比咩神社の祭神はというと、白山比咩大神、伊弉諾尊、伊弉冉尊の3柱。
イザナギとイザナミは日本神話 – 古事記と日本書記 – の中に、国産み神産みとして登場する夫婦神。
(あらかじめお断りしておきますと、ここから先の記述はわたしの個人的な見解です)
白山比咩大神であれ白山比咩大権現であれ、あまりにも知名度がひくく白山信仰を全国規模でひろめるには役不足。そこで天地開闢(世界の始まり)のときに現れた重要な神である神世七代のイザナギ、イザナミを祭神として採用したと考えます。
つぎにもともと祀られていた白山比咩大権現については、日本神話のなかでイザナギ、イザナミと同じ場面で登場する菊理媛神と同一神だとします。
このククリヒメですが、古事記にはいっさい登場せず、全30巻ある日本書記の第一巻・神代編(上)の黄泉の国について書かれた章の末尾にまとめられた本伝とはべつに列記された一書(異伝)の10番目に、一瞬だけ登場します。
古事記によると妻・イザナミを失ったイザナギは悲しみに耐えきれず黄泉の国まで会いに行きます。ところが見てはいけないと忠告されながら見てしまったイザナミの腐敗した醜い姿に恐怖して一目散に逃げだします。
イザナミはというと醜い姿を見られたことを恥じてついには怒り、イザナギを追いかけます。
古事記ではイザナギは黄泉比良坂を大岩でふさいで逃げ切るのですが、日本書紀の異伝ではちょうどこの場面にククリヒメが登場します。
イザナギとイザナミは比良坂で言い争いになり、イザナミはこのまま黄泉の国にとどまると宣言します。このとき – – –
「是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。」(このとき、菊理媛神はなにごとかを伝え、イザナギはそれを聞いて納得してその場を去った)
ククリヒメが日本書記すなわち神話の中で登場するのはたったこれだけです。しかも登場とはいっても「なにごとかを伝えた」というだけで、なにを伝えたのかもわからなければ、どこから現われたのか、どのような姿だったのか、まったく記述はありません。
白山比咩大神を神話のなかのどの神様と同一神とするか判断するさいに、ほぼ見過ごしてしまうような存在感のまるでない菊理媛神にわざわざ焦点をあてるでしょうか。
やはりここはククリヒメがあってイザナギイザナミを添えたのではなく、まずイザナギイザナミがあってククリヒメを後付けしたと考えるべきでしょう。
さらに奇異なのは、菊理(くくり)は「括る」につながるため白山比咩神社のおもな御利益は「縁結び・和合」。どうやらダジャレで御利益をきめているような。だれもが皆ダジャレ好きと、ひと括りにしてはいけません。
★「菊」はむかし中国では「クグ」と発音していたそうで、それが朝鮮をへて日本に伝わったのだとか。ためしにAIにたずねたところ韓国ではいまもkuk-hwaと発音するそうです、
平泉寺白山神社(福井県勝山市)
平泉寺白山神社は、白山比咩神社とおなじころ秦澄大師によって開山されます。

最下部中央から上へ歩きます





神仏習合時代の名残り



もともと白山信仰の神を祀る神社としてではなく、神仏習合のもとで平泉寺として開山したようです。それゆえ白山比咩大神も菊理媛神もここでは影すら見せず、中世には白山妙理大権現を主祭神として祀っていました。
現在は、主祭神が本殿に祀られた伊弉冉尊、本殿右の別山社に天忍穂耳尊(アマテラスの息子)、左の越南知社に大己貴尊(オオクニヌシの別名)。
祭神については白山比咩神社とずいぶん違いますが、ともに白山信仰が根本にあるのは同じです。秦澄が白山を御神体として開山し、その白山への登山口(登拝口)として加賀に白山寺(いまの白山比咩神社)、越前に平泉寺(いまの平泉寺白山神社)、美濃に長滝寺(いまの長滝白山神社)を開きました。
ほんらい白山を崇める神社であるはずが、神仏習合の影響で寺になっていたことから、あの強大で厄介な比叡山延暦寺に目をかけられ(目をつけられ?)3山(寺)ともに延暦寺の庇護下に入ります。「庇護」とは方便 – – 明智光秀も言ってます「僧のうそは方便といい武士のうそは武略という – – 実際のところは天台宗を押し付けられ末寺になります。
冒頭で書いた京都の白山神社の由来ででてくる神輿をかついで強訴した、これなんぞは延暦寺の十八番ですから立派な子分になったということでしょう。
なかでも平泉寺は相当数の僧兵をかかえていたようです、しかも頑強で戦闘的。
白山山頂の利権(祭祀権、入山料宿泊料の徴収、御札の配布など)をめぐりそれらを有していた白山寺(白山比咩神社)と身内ながらはげしい抗争をくりひろげます。
南北朝時代には当初こそ後醍醐天皇(南朝)に加勢しますが(境内には楠木正成の墓がある)、北朝の有力守護・斯波某からあらたに荘園の支配権をあたえられるとあっさり北朝方に寝返り、南朝方で楠木正成とならぶ大黒柱ともいうべき新田義貞を討ち取ることに貢献します。
こうして短期間で勢力を拡大してゆき、さらには北朝方が後醍醐天皇が南朝の拠点とした吉野を攻撃したことから吉野・熊野の修験道がすたれ、反比例して白山の修験道が隆盛をきわめるという余得まで手にします。
ところが戦国時代になると一向一揆勢が巨大化し、越前では武士の勢力争いというよりも平泉寺と越前一向宗徒のつぶすかつぶされるかの争いが激化します。このとき平泉寺は全焼しいったんは衰退してしまいます。
戦国の世が終焉し平和な江戸時代になると、ここで延暦寺の子分になっていたことが思わぬ僥倖をもたらします。
徳川家康から秀忠そして家光と将軍3代にわたって政僧としてつかえた天海上人は、もとをたどれば延暦寺の出身です。親分堅気な天海のことですから子分に悪いようにするはずがありません。
福井藩主は代々家康の次男・結城秀康を祖とする越前松平家であったこともあり、このたびこそ文字どおり庇護されて大々的に復興します。
さらに時代が下り明治維新のあと神仏分離令と廃仏毀釈が施行されると、平泉寺は寺としての建物、設備、道具のすべてを破却させられることになります。こうして神々を祀る神社になったということで、寺としての歴史は千数百年、神社としての歴史は百数十年。
神様も長いあいだ仏の仮の姿に格下げされたうえに、煩悩と我欲にまみれた数々の争いを苦渋のおもいで見てきたのでしょうか。
平泉寺白山神社・三の宮


行きついたところに三の宮


白山信仰とはなにか。
はっきり把握できない謎の信仰とよく言われます。
理由は一向一揆勢との騒乱などにより寺にあったはずの史料が消失してしまったこと。もうひとつの理由はむかしから信者に多くの被差別部落民がおり、取材調査のためにはその被差別部落にふかく足を踏みこむ必要があるため研究者が立ち往生した過去があったようです。
そもそも被差別部落民はなぜ生まれたのか。
古くは奈良時代に良民(役人、農民、手工業者などいわゆる一般民)とはべつに賎民(賎しい=卑しい)が存在しました。たとえば戦で敗れた捕虜、謀反者、犯罪者、借金を返せない者などが良民よりも身分(あるいは階層)のひくいものとして、懲罰的な意味で差別され限られた特定の仕事に従事することを強いられました。
その仕事は「五色の賎」といわれ、①陵戸(天皇や貴族の墓の守衛)から②官戸 ③公奴婢 ④家人 ⑤私奴婢(豪族などが私有する奴婢 / 奴婢とは売買される奴隷)まで。
もっと詳しく知りたい方はネットで調べてください。
わたしがここで注目するのは、①番上位とはいえ賎民である陵戸が、天皇や貴族の墓の守衛をしていること。
とくに天皇はたんに身分が貴いだけでなく、アマテラスの末裔すなわち神の系譜と崇敬される存在です。
なぜ天皇の墓の守衛を、わざわざ身分を落として卑しい民とした賎民にやらせるのか。
調べてみて、いささか衝撃をうけました。
飛鳥時代までは、天皇の墓を守衛管理するのは墓や埴輪づくりさらに葬送をうけもつ土師部とよばれる職業集団であり、かれらは言うまでもなく「良民」でした。
ところが奈良時代になって神仏習合により神道と仏教が融合し、「死」や「血」を穢れたものと考えるようになります。
そこで貴人は死に関係する墓づくり、葬送、埋葬、墓の守衛などにはいっさい触れないようにし、間接的にも触れないようにそれらの仕事を「不可触民」である賎民に限定して従事させることにしたのでしょう。
(※一般には死や血を穢れたものと考えるのは神道であり、仏教にはそのような考えはないとされていますが、神道のいう穢れにはかならず祓い=清めがあり、それが差別につながることはありません。
そもそも仏教が伝来するまえの日本では死者を弔うのは「良民」がおこなっていたのであり、死=穢れからさらに卑しいと結びついたのは神仏習合のあとのことであり、神仏習合が仏教本位でなされたことを思えば – – )
それでも奈良時代には時がたてば賎民から良民にもどる(あるいは上がる)こともあったようです。その意味では懲役刑のようなものだったのでしょうか。
平安~鎌倉~室町と差別はしだいに度を増してゆき「賎民」は「穢多」とよばれるようになります。そして著しく過酷になったのが江戸時代。
穢多と呼ばれる人たちがつける仕事は、斃牛馬の解体とそれにともなう皮革製品作り、犯罪人の処刑や死体処理、牢屋・刑場の管理、葬送埋葬など死にかかわる雑務など、ようするにすべて穢れとされる「死」と「血」にかかわること。
こうして見てくると「穢多」とはその人たちが穢れ多いのではなく、穢れ多い仕事を専門にさせられたと考えられます。
穢れ多い仕事は誰もがやりたくない。
誰もがやりたくない仕事ならば限られた誰かに無理強いしてやらせればよい。
さらに逃げられないように居住地区も限定する。
人手確保に困らないよう世襲制にする。
世襲制とは親から子へとうけつぐこと、ならば穢れた血をついでいるのだから合理的。
こうして被差別部落民がうまれた(つくられた)のではないでしょうか。
大矢谷白山神社(福井県勝山市)

大矢谷白山神社は平泉寺白山神社から6kmほど南東の、山のなかではないものの周囲は田畑と森林ばかりの、いかにも神様を祀るにふさわしい地にあります。
祭神はククリヒメと武甕槌命。
タケミカヅチは日本神話の中で最強の力持ち、国ゆずりのさいにオオクニヌシの力自慢の息子タケミナカタをひょいと投げ飛ばしてしまいます。
なぜその怪力無双の神様が祭神なのか、あとの写真を見ていただければなんとなく納得がいきます。


この巨岩からククリヒメだけでは繊細すぎるので、怪力のタケミカヅチをイメージしたのでしょうか。
被差別部落民がうまれた経緯をみると、この差別は理不尽を通りこして不条理とさえ思えます。
士農工商にも含まれないのですから人であっても人でないということでしょうか。
最近では被差別部落民のすべてが貧しかったわけではなく平民よりも豊かなものもいたという反論(歴史の見直し?)がありますが、経済的な豊かさと人間としての身分差別はまったく別ものです。
それほどに絶望的な差別のもとで生きている人々にとっては、神も仏も糞くらえだったとしてもなんら不思議はありません。
白山はかつては山頂が一年中雪におおわれ白く輝いてみえることからその山名がつけられました。
白山信仰とは白山という山にたいする畏敬と、白という色にたいする憧憬を合わせもったものです。
菊理媛神も伊弉冉尊も、白山○○大権現も十一面観音菩薩もすべて後付けにすぎません。
白は清浄や無垢につながります。
死は穢れと考えられていました。それゆえ死装束が白なのは穢れをはらってあの世へ行くことを願ってのこと。
むかしのひとたちは人は生まれ変わると信じていました。白い装束につつまれて無垢になり新たな世界へむかうことを祈って。
赤ん坊の産着がむかしは白だったのは無垢な人を受け入れるためです。
【アクセス】レンタカーで回りました。
【料金】3社境内、白山平泉寺歴史探遊館まほろば:無料
【満足度】★★★★☆






