【兵庫県・出石市 2023.7.24】 但馬国の守護はながらく山名氏が務めていました。織田信長の西国平定にともない、山名祐豊はその居城をいったん捨て退去しますが、すぐに今の出石町中心地にある有子山の山頂にあらたな城を築きます。さらに山麓に居館を築くのですが、信長の命をうけた秀吉(この当時は羽柴秀吉)の軍により攻め滅ぼされます。時がうつり秀吉の時代になると、その家臣である小出吉政が但馬藩主となって入城します。この小出吉政ですが、なかなか世渡りがうまく、関ケ原の戦いにおいては自身は西軍につく一方、弟・秀家は東軍について、戦況が東軍有利とみるや吉政は戦うのをひかえ、秀家は勇躍します。弟・秀家が東軍で働いただけでなく、兄・吉政が西軍で「働かなかった」功もくわえ、小出氏はその領地を安堵されます。吉政の子・吉英はこれも情勢をよむのに長けており、徳川家康にあえて恭順を示すため、有子山上の本体となる城郭を破却し、山麓の居館であった部分を拡張し、天守閣をもたない、いかにも平和な時代の居館然とした城を築きます。これがいまの出石城であり、山上にあったものがいまは有子山城址と呼ばれているものです。出石城の歴史においてはもうひとつ特筆しておくことがあります。小出氏はのちに世継ぎがいなかったために改易となりますが、そのあと仙石政明が信濃上田藩から転封されてあらたな城主となります。信濃上田城といえば、もとは真田家がきずいた名城ですが、いまは城について語るのではなく、信濃地方の名産である蕎麦について。仙石政明は信濃上田藩主時代に食した、その蕎麦の味を忘れがたかったのか、蕎麦職人まで連れて但馬に移り、この地でソバの栽培からはじめて、ついには蕎麦を特産品にまで育て上げます。それゆえ今回は出石城を訪ねるだけでなく、出石蕎麦も食べて、と企画しています。 出石城 出石城の内堀では出石焼の風鈴が奏でています 登城橋をわたり登城門へ 振り返る... Read More | Share it now!
生野銀山、明延鉱山を見てまわる
【兵庫県・朝来市、養父市 2023.7.23】日本の産業で「こうぎょう」といえば、いまは「工業」しか思い浮かびませんが、かつては「鉱業」という分野がありました。古くは奈良の大仏本体をつくるために使った銅、表面にぬった金はすべて国産です。武田信玄や上杉謙信が自領内に金の鉱山をもっていたため軍資金が潤沢だったのは有名な話ですが、織田信長は西国平定の過程で但馬国生野の銀山を掌握すると、すぐに自らの直轄地として重要な財源とします。生野銀山は江戸時代になっても幕府の直轄地として栄えますが、しだいに銀鉱が堀りつくされると、かわって銅や錫(すず)の産出が激増します。明治元年、生野銀山(鉱山)と、近隣にある明延鉱山がともに官営となり、さらに明治29年(1896年)民間に払い下げられて民営化すると、大規模な「鉱業」産地へと変貌してゆきます。 このところ猛暑日を頻発するようになり、日中歩くのもしんどくなってきたので、今回はいずれ車で回ろうと計画していた、この鉱山巡りを実行することにしました。 生野銀山 生野代官所の門跡 生野銀山は戦国時代から国内有数の産出量をほこる銀山でしたが、江戸時代になってからは生野奉行が置かれて正式に幕府の管理のもとに入ります。さらに江戸時代中期には管理も生野奉行から生野代官所にかわり、銀の産出量は月150貫(562kg)と最盛期をむかえます。 坑道入口 江戸時代後期にはあらかた掘り尽くしたために銀の産出量は激減しますが、明治元年、明治新政府はここを日本で最初の官営鉱山とし、フランス人技師を招聘して近代的な鉱山へと変革させてゆきます。 坑道 坑道 本道から脇道へ 明治29年(1896年)に民間に権利を委譲する際には、当時の最大財閥である(岩崎)三菱に払い下げられます。こうして三菱合資会社(いまの三菱マテリアル)の手でいっそう近代化を推し進め、銅、錫を中心に70種の鉱石を採掘したそうです。 さらに狸堀がある 採掘のため、じつに350kmをこえる坑道が掘られたそうですが、三菱合資会社により採掘されたものには銀はなく、その意味ではここは生野銀山の坑道ではなく、生野鉱山の坑道というべきかもしれません。 閉山したのは昭和48年(1973年) その閉山前の重機が残されています 神子畑鋳鉄橋 神子畑鋳鉄橋 明治11年に生野から16km北西の神子畑でも鉱山がみつかり、鉱石運搬のために両所をむすぶ道路がつくられます。その際に架けられた鉄橋のひとつです。 神子畑選鉱場跡 もとはこの傾斜上に作業棟が建っており、 下へ流すにしたがい鉱石を選別した 神子畑鉱山は埋蔵量が少なかったのか明治時代末期に閉山になります。そして大正時代になってその跡地につくられたのが掘り出した鉱石を選別する、この選鉱場です。おもに明延鉱山で採掘した鉱石をトロッコ列車で運んでいたそうで、最盛期には24時間営業でフル回転し、その規模は東洋一だったようです。 シックナーとよばれる濾過用の巨大建造物 この上部に選別した鉱石を入れ、脱水・濃縮する フランス人技師ムーセ旧居... Read More | Share it now!
高野山奥の院をあるき、高野三山にのぼる
【和歌山県・伊都郡高野町 /... Read More | Share it now!
混雑する京都市内を避けて、長岡京の光明寺で大当たり
【京都府・向日市~長岡京市 2023.7.15】久しぶりに京都の寺社を見に行こうと思ったものの、よくよく考えてみるとこの日は3連休のはじまりで、しかも今日から祇園祭がいよいよ佳境にはいるため、まさに言語を絶する人出が予想されます。さらに天気予報によると京都市内の予想最高気温は36度。猛暑のもとで人でごった返すなか寺社見物をたのしむ場面はどうしてもイメージできません。そこで大阪を基点にいうと、京都市の手前にあたる向日市、長岡京市あたりでめぼしい寺社はないかと調べてみたところ、いくつか見つかりました。なかでも長岡京市にある光明寺は紅葉で有名なところですが、紅葉が美しいということは青もみじも美しいはずです。ありがたいことに(というと同じ時に京都市内を散策する人には申し訳ないのですが)、京都盆地から南に外れているためかこの一帯の予想最高気温は33度。正午過ぎまでに引き上げるようにすれば、もっとも暑い時間帯でも30度そこらとなり、これなら最後まで楽しめるレベルでいられます。 向日神社 舞楽殿から拝殿(奥) 拝殿 本社拝殿と祖霊社本殿をつなぐ渡廊下の下をくぐる 向日神社はそもそもは向神社であったようで、社伝によると718年の創建とのことですからずいぶん歴史の古い社です。護火および祈雨の神である火雷大神、五穀豊穣の向日神、さらに神武天皇とその御妃の御母である玉依姫命(玉櫛姫)と、神話の時代の神様を祀っています。 急階段を下る 渡廊下をくぐって本社の後方に抜けると、木立越しに街並みを見下すことになり、この神社が小丘の上にあることがわかります。高さでいうと100mぐらいある急階段をくだると、住宅地に出ますが、そこから長岡京市に変わります。 乙訓寺 表門 徒歩20分ほどで乙訓寺(おとくにでら)に着きます。乙訓寺は推古天皇の勅願により、聖徳太子が開祖となって建立したと伝えられていますが、とにかく関西には「聖徳太子開祖」の寺はあまりに多いので、伝承の域をでません。しかし史実として確実なことは、早良親王はここに幽閉され配流の途上でなくなり、怨霊として祟り神になった事実です。 鐘楼と本殿(奥) 早良親王(さわらしんのう)は桓武天皇の弟であり、次の天皇候補すなわち皇太子でした。桓武天皇は平城京における仏教勢力の過大な影響を憂慮して、(平安京のまえに)長岡京へ遷都を計画します。その実務をおこなう責任者が早良親王と藤原氏の実力者・藤原種継ですが、その種継が暗殺されたことから早良親王は首謀者として拘束されることになります。その拘束されていたのが、この乙訓寺です。早良親王は絶食して自分の無実を訴えますが、聞き入れられることなく、淡路島へ配流となり、その途上でまさに憤死します。 本堂 ところが早良親王の死からのち、桓武天皇の身辺で次々に凶事がおこり、これら不幸不吉な出来事が続発するのは早良親王の祟りだと噂されるようになります。そもそも祟りとか怨霊を恐れるのは、無実の相手を陥れた側のうしろめたい気持ちから出てくるもので、その意味では早良親王は無実で、桓武天皇の側になんらかの意図的なものがあったのでしょうか。早良親王は崇道天皇という追尊の位をあたえられ、さらに怨霊を鎮めるため京都や奈良にある崇道神社に祀られています。(すなわち崇道神社はすべて怨霊神社です) 光明寺 乙訓寺から徒歩15分ほどで光明寺に着きます。光明寺は、平家物語にも出てくる源氏の武将・熊谷直実(くまがいなおざね)が出家してのちに創建した寺です。平家没落の起点となった一ノ谷の戦い(いまの神戸市西側)に勝利した源氏方は、周辺の掃討をすべく個々に見回りをおこなっていました。そのとき熊谷直実は須磨の海岸で逃げ遅れた平家の将を見つけます。勝利の勢いそのままに直実が相手を組み伏せると、それは見た目もうつくしい若者で、いかにも高位のものと思われます(実は平清盛の甥にあたる平敦盛でした)。その首を取れば大殊勲です。しかし相手は自分の息子と同年くらいの若者、しかもその目は涼しげで怒りも恨みもありません。しかも直実の躊躇を見て取ったのか、若者(敦盛)はためらわず自分の首をとって手柄にするよう勧めます。直実はあらゆる感情を殺してそのときは敦盛の首を取るのですが、この事件は直実の心に大きな影を落とすことになり、やがて直実は出家して高野山に上がります。のちに直実は法然上人に出合い、その弟子となり、この光明寺を開山することになります。 総門からいきなり続くゆるやかな階段 いったん平坦部をあるくと次の階段が見えてきます 階段を上りきるとまっすぐ御影堂(本堂にあたる)へ 総門から御影堂への道は、絵画のように美しいもので、この道を歩くだけでもわざわざ来る甲斐があります。階段の傾斜が緩やかなゆえか、風景に厳かさはないのですが、優しさがあります。それゆえ総門をくぐり御影堂にたどり着くまでに、ゆっくり穏やかに仏の慈愛に包み込まれてゆくような感覚をおぼえます。 法然上人像と御影堂 御影堂から阿弥陀堂をみる 阿弥陀堂 阿弥陀堂の奥に法然上人御廟や納骨堂がありますが、一般参拝者はこれより先には立ち入れません。それでも御影堂は中まで入らせてもらえたので良しとしましょう。 御影堂から一段低くなった伽藍へ下る 勅使門... Read More | Share it now!
関西では兵庫県にひとつだけある虚空蔵山にのぼる
【兵庫県・三田市~丹波篠山市 2023.7.11】虚空蔵山という名の山は、ネットでざっと調べただけでも30近くあります。名の由来は、虚空がすべてを蔵するように、無限の智慧と福徳をそなえ、人々にそれを与え救う虚空蔵菩薩を祀る山、ということのようです。なにも虚空蔵菩薩にすがろうとかあやかろうというのではないのですが、関西で暑さのきびしい時期に山登りをするならば、まずは各地の気温のチェックをして少しでも快適にのぼれそうな山を探します。そして前回登ったのが、大阪北西部の能勢妙見山、そして今回チェックしたのがそこからもう少し北西にある虚空蔵山だったということです。このあたり一帯は気象条件が異なるのか関西では夏をとおして比較的気温が低めなようです。 今回は朝7時15分に自宅を出て、9時から登山をはじめました。 JR藍本駅から登山口へ 手作りの標識にしたがい農道を山へ向かって歩く 右前方に虚空蔵山が見えてきた 登山開始 はじめのうちは渓流沿いに進みます 朝7時に大阪市内の気温は26度でしたが、駅まであるく間はすでにムッとした暑さでした。ところが9時に藍本駅から歩きはじめた時の気温は27度でしたが、26度の大阪市内よりずっとしのぎやすく感じました。やはり緑の多さ、脇を走る車の少なさなどが影響しているのでしょう。さらに山道に入ると、樹林による日陰があり、道が土であることから体感気温は5度くらいも下がります。これで風が吹き抜ければいうことないのですが、今日はほとんど無風状態です。 この先に虚空蔵寺があるゆえ参道(?) 昨日までの雨で濡れており滑る、滑る 虚空蔵寺 虚空蔵寺に到着したようです 石段の先に伽藍が 本堂のみがひっそり残る 案内板によると、創建当初は七堂伽藍があったそうですが、その後に衰退。摂津・丹波・播磨三国の城主らが再興につとめるものの、明智光秀の丹波攻略のさいに焼失。その後は村人の協力で本堂、仁王門、鐘楼が再建されるが、いまは本堂を残すのみとなっているそうです。なお開祖は聖徳太子とのことですが、それは伝承の域を出ないでしょう。 山頂へ けっこうな急坂がつづきます しかも道は荒れています 山頂手前に岩場がありました その岩場から丹波の山々を見わたす こちらが山頂 山頂の50mほど手前に岩場があり、そこからの眺望はなかなかのものです。その岩場には日陰がないので夏場は大休憩には向きませんが、涼しい季節ならそこで昼食にするのがもってこいでしょう。 下山をはじめる、まずは八王子山へ 急坂をくだります この電波塔をくぐり、先のピークを越えます 下りてゆく先が垣間見えました 道標はありますが... Read More | Share it now!
能勢妙見山は、関西の梅雨時でも快適にのぼれる
【大阪府・豊能郡能勢町 2023.7.6】そもそもは京都の山をのぼりに行くつもりでしたが、今日の京都市内の最高気温は36度予報。聞いただけで気持ちが失せました。大阪南部や奈良は33度予報。無理ではありませんが、あまり快適な山歩きは期待できません。そんな中で大阪北部から兵庫の宝塚辺りは31度との予報。しかも仔細にみると、午後12時時点は29度、そのあと午後2時~3時ごろのかけて31度までまで上がるとの予報。これで樹林の下で日差しが遮られ、さらにかたわらを川か渓流でも流れていれば、室内でじっとしているよりもはるかに快適な時間を過ごせます。 ということで大阪北部の能勢地域にある、妙見山へ向かうことにしました。(結果を先に言うと、午前7時に自宅を出て、8時30分から登山開始、10時過ぎに山頂着、40分ほど休憩と見物後下山をはじめ、12時30分駅着。おかげてたいへん快適な山歩きを楽しめました) 歩いたルートを記したマップを添付しました。赤マークがスタートとゴール、紫マークが足跡ポイントです。 妙見口駅から登山口へ 妙見口駅から登山口へ... Read More | Share it now!
飛鳥時代の舞台・明日香村を見てあるく
【奈良県・高市郡明日香村 2023.7.2】聖徳太子について興味をもてば、その太子が活躍したのが飛鳥時代ですから当然のように明日香村がゆかりの地として注目されます。明日香村は村全体が歴史的風土保存地区に指定されており、たしかに大きなビルや目立つ看板などは一切なく、いつ訪れても穏やかで落ち着いた散策を楽しめます。なお「明日香村」の表記ですが、もとは飛鳥村であったものが昭和の時代に隣村との合併があり、そのさいに変更されたようです。 今回は歩いたポイントを示す地図を添付しました。 野口王墓古墳(天武・持統天皇陵) 天武・持統天皇陵は八角形墳 当初は5段に築成されていたと考えられています 橘寺、川原寺へ 亀石 何の目的で造られたのか、完成なのか未完なのか、謎につつまれた巨石。たしかに亀と言われれば亀のようですが、なにかの造りかけのようにも見えます。 ところでここを訪れるといつも思うのですが、後方の垣根をもう少し高くして背後の民家が見えないようにすれば良いのでは。民家の住人もきっと迷惑しているはずです。 橘寺 後方に見えるのが橘寺、一説では聖徳太子の生まれた地とも言われています。ここは昨年春に拝観したので今回は遠望するに留めます。(拝観料400円要) 向かいに、当時は大寺院だった川原寺の跡があります 川原寺跡から橘寺を遠望する 岡寺(龍蓋寺) 岡寺・仁王門 天武天皇の子息で若くして亡くなった草壁皇子がくらしていた、岡宮跡に建立されたため岡寺と通称されますが、本来の寺名は龍蓋寺。7世紀末につくられたとの記録があるので、飛鳥時代の末期になります。 仁王門 岡寺は「花の寺」を自称しているようですが、下の画像のようになにやら「やり過ぎ感」が否めません。 手水 奥の院への道 開山堂(中央)、本堂(奥) 本堂(内の如意輪観音坐像は見応えあり) あるがままでも大変魅力のある寺院です。 岡寺境内からの眺望 飛鳥宮跡 この一帯に天皇の宮や政事を執行する建物があり 大和朝廷の心臓部であったことになります 酒船石遺跡 祭祀にためにつくられた設備? これは祭祀のためにつくられた導水設備と考えられています。斉明天皇の時代につくられたとのことなので、7世紀中頃、飛鳥時代の真っ只中ということになります。注目すべきは右端の丸い石造物。これはあきらかに亀形で、やはり先に見た亀石と何らかの関連があるのでしょうか。(あるいはこの亀形石造物ゆえになんでもかんでも亀と連想しているだけで、亀石自体は亀とは関係ないのかもしれません) 酒船石 こちらは酒船石との名も付いており、酒造につかったものではないかと推測はされていますが、確証はされていません。 飛鳥寺 裏側(北側)からアプローチ 本堂にある飛鳥大仏(釈迦如来坐像)は日本最古の仏像 蘇我入鹿の首塚 山背大兄王(聖徳太子の息子)を自害に追い込み、蘇我氏全盛時代をきずいた蘇我入鹿は、中大兄皇子と中臣鎌足により殺害され、そこから大化の改新は始まります。やはり入鹿は悪者として扱われていたのか、その墓所は明らかでありません。それどころか飛鳥宮で斬殺された入鹿の首は、ぶっ飛んでここに落ちたとの伝説が伝わっています。◎入鹿の首がぶっ飛ぶ画は、談山神社に残されているそうです。飛鳥宮からここまでの距離は0.5㎞ほど、なかなか勇ましい伝説です。 飛鳥坐神社 飛鳥坐神社 「あすかにいますじんじゃ」と読みます。主祭神は大国主命(おおくにぬしのみこと)。出雲に最初の国の形(日本)をつくったとされる神様ですから、その神話を信じるならば歴史は飛鳥時代をはるかにさかのぼります。どちらにしても飛鳥地方の守護社としてここに鎮座してきたそうです。 拝殿はそれほどでもないのですが、 奥へ奥へあるくと摂社、末社がならび、 たいへん雰囲気の良いところでした 飛鳥坐神社から石畳の道を歩きます 甘樫丘 甘樫丘に上がってみます。かつて入鹿の屋敷があったとか ここは飛鳥の北辺に位置し、藤原京跡を見わたせます 奈良盆地をかこむ山々も望み、 散歩するにはもってこいの場所です 植山古墳、丸山古墳 植山古墳(かつて推古天皇と竹田皇子の墓だった?) 丸山古墳(天武・持統天皇の合葬墓?) 最後になんとも閉まらない話ですが、最初にみた野口王墓古墳も天武・持統天皇の合葬墓と言われていますが、こちらの丸山古墳についても同じように伝承されています。しかしこれは不可解です。そもそも天武天皇が没したあと、その后が持統天皇として次の天皇位につきます。そして野口王墓古墳は持統天王が即位してすぐぐらい(7世紀後半)につくられたと記録があります。おそらく夫である天武天皇を埋葬するためにつくったのでしょう。野口王墓古墳は比較的小型の八角形墓でしたが、これは古墳文化の終焉にあたる時期につくられた証左で、時代考証としても合います。そして持統天皇は自分が亡くなるときには天武天皇と一緒に合葬してくれるよう遺言したのでしょう。それにたいして丸山古墳は6世紀後半につくられたものと推測されています。野口王墓古墳よりも一世紀前、天武天皇も持統天皇も死んでいないどころか生まれてもいません。また丸山古墳は丸形墓か方形墓のように見えますが、半分以上がくずれたもので元は大型の前方後円墳です。6世紀後半といえば貴人の陵墓が大型古墳から小型古墳に移り変わるころで、最後の大型前方後円墳だったのではないでしょうか。さてここからが不可思議なのですが、学者のあいだではこの丸山古墳は欽明天皇とその后の合葬墓ではないかと言われています。両人は推古天皇の父母ですから時代と照らし合わせて話は合います。ではなぜ、ということになるのですが、実は宮内庁がなぜかこの丸山古墳は天武・持統天皇の合葬墓であるとの見解を示したままになっており... Read More | Share it now!
アジサイを見ようと生駒山にのぼる
【大阪府・東大阪市 2023.6.29】生駒山系は北から南へ大阪府と奈良県の境をなしていますが、その大阪側すなわち西面には「大阪府民の森」で総称されるいくつもの自然園地がならび連なっています。そのなかで「ぬかた園地」とよばれるところは25000本のアジサイが植えられ、シーズンになると山の中に忽然とアジサイが咲き誇る異世界をつくりだします。今日は曇天で日差しも強くない上に雨も降らないようなので、久しぶりに生駒山を登りにゆきます。 近鉄石切駅から石切場跡へ ここから左の山道にはいる 生駒山の登山道はガイドブックやサイトで紹介されているだけでも20や30はあります。ほかにも脇道のようなものも含めれば、「とてもたくさんある」としか言えません。 今日は大阪城の石垣につかう石を切り出した「石切場跡」を見てみたいので、近鉄石切駅からスタートします。 昨日までの雨で全体が濡れており、湿度が高い まだ朝9時前で気温は高くないが、 湿度がほぼ100%のような状態で、 歩くにしたがい汗が噴き出してくる ここが石切場跡 すでに木々が茂り、石切場だったのやら元々岩肌がむき出しの崖だったのやら、よくわからない状態でした。 生駒山縦走路 ひょっこり山並みが見えました 生駒山縦走路と合流したあたりから 風が吹き抜けるようになり すっかり快適に歩けるようになりました 道端に野生のアジサイが咲いています そしてぬかた園地に到着 ぬかた園地でアジサイを楽しむ ヤマアジサイ(?) ヤマアジサイと思いますが、品種は不明 ヤマアジサイ クレナイ(紅)という品種だそうです 生駒山頂へ ぬかた園地を出て丸太階段道をのぼる 生駒山系へはたびたび歩きに来ていますが、生駒山頂へはもうかれこれ5年だか10年だか上がっていないので、久久振りに山頂へ向かいます。 生駒山頂は全体がショボい遊園地になっています 冗談ではなく、これが山頂 さっさと下山しよう おもしろみのない道を下る いつも生駒山頂まで上がらないのは、このような事情によります。あのショボい遊園地を見るたびに、自然破壊をしてまでわざわざ造ったものがこれかと思うと、情けなくなります。なおまったく人がいませんでしたが、本日木曜日は休園日ゆえで、他の日は... Read More | Share it now!
日本最大級の海城・高松城をたずねてみた
【香川県・高松市 2023.6.26】豊臣秀吉による四国平定ののち、讃岐一国は生駒親正にあたえられます。親正は野原庄とよばれていた港にあたる地を高松と名をあらため、ここに海城(水城)を築きます。海城とは海からの海水を外堀、内堀に引き込み、海から直接出入りできるように築城したもので、設計(縄張り)は築城の名手であった黒田如水(もと黒田官兵衛)ともいわれています。その後、徳川家康の孫であり徳川光圀(水戸黄門)の兄にあたる松平頼重が常陸の国から12万石で転封され、改修していまに残るものとなったそうです。 高松城については、歴史的にはそれほど強く惹かれる人物も関わっておらず、その意味では関心がなかったのですが、現存する海城(水城)を見たことがない上に、日本百名城に選定されているということで所用で岡山県の児島へ行ったついでに回り道をしてみました。◎ちなみに児島から高松までは電車で30分、高松から大阪へは高速バスで4時間。児島から岡山を経由して新幹線で大阪へ戻るより時間的には長くかかりますが、料金的には安く上がりました。 艮櫓、旭橋、旭門、桜御門 JR高松駅を出ると、すぐ横に高松城址が見える 先ずは南へ回って艮櫓へ、旭橋と旭門より城内へ 艮櫓の艮(うしとら)ですが、そもそも丑寅と書いて北東を指します。ところが現在のこの位置は城全体からいうと南東です。不思議におもって案内を読んだところ、もとは北東(丑寅)の位置にあったものを移築したのだとか。昭和40年に移築したそうですが、どのような意図があって移動させたのやら。(このあたりからこの高松城に関しては、胡散臭いというか、歴史の品格を感じられない空虚感を感じはじめました) 城内から艮櫓をみる 桜御門... Read More | Share it now!
これはイチオシ、金勝アルプスで山歩きを満喫する
【滋賀県大津市 2023.6.25】林野庁のホームページに「近江湖南アルプス自然休養林」の紹介として、つぎのような文章が掲載されています。『滋賀県の南部に位置し、花崗岩の岩塊群が独特の景観を作り出し「湖南アルプス」と呼ばれ、琵琶湖まで見渡せる素晴らしい眺望が広がっています』どうやらこの文章では、近江湖南アルプス=湖南アルプスとしているようです。少々ややこしいのですが、近江湖南アルプスは、南に位置し太神山、矢筈ヶ岳、笹間ヶ岳を中心にしたものを湖南アルプスとよび、北に位置する鶏冠山、竜王山を中止にしたものを金勝(こんぜ)アルプスとよぶのが登山者のあいだでは通例になっています。近江湖南アルプス全体が上の文章にあるようにたいへん魅力あるものなのですが、今回登るのは、低山とはいえ湖南アルプスよりは多少は標高も高く、「登った感」もあじわえる金勝アルプスです。 山歩きを楽しむ バスを降りると、キャンプ地横の駐車場を抜けます ほぼ平坦な林道をのんびり歩きます 山道に入ると渓流を渡渉しながら進みます 山道というより自然遊歩道を歩くような 道標も整っています ここまでは山道とはいえ勾配はいたって緩やかで、危険な箇所はまったくなく、道標も整っており、たいへん楽しく歩けます。案内板にも「ハイキングコース」とありました。 そして山登り 寄り道して、滝をながめ 山登りになりました これくらいまで上がってきました 岩肌の露出した地面を歩きます 岩場を登ります 要所にはロープがあり、登りやすい 周回路は左、右へゆくと鶏冠山 この分岐から鶏冠山の山頂へは往復40分ほどですが、道程はおもしろみなく、山頂はやぶの中で眺望なし。山歩きを楽しむのが目的なら、とくに往復する必要はないかと思います。 ◎鶏冠山はこの地では「けいかんざん」と読みます。「とさかやま」と読むのは、山梨県にある2000m超級の、まさにトサカのように峰々が切り立った、熟練者向きの山です。 天狗岩へ ふり返ると、鶏冠山が見える この岩越えも道のうち 山肌がえぐれた道もあれば 岩と石だらけの道もある 地震でも崩れないのか? 真正面に見えるのが鶏冠山 さらに岩場を越えると、 前方の視界が開け、天狗岩が見えました 天狗岩へ... Read More | Share it now!