肥前・佐賀藩鍋島氏の居城を訪ねる

【2023.1.17 佐賀市】
「肥前、佐賀藩、鍋島氏」とならべても戦国時代の中心となる地域から大きく外れており、同じ九州でも島津義弘や大友宗麟のような有名武将がいたのでもなく、あまりピンと来ないかもしれません。
この地はもとは龍造寺氏が領有していました。龍造寺隆信の時代に近辺の土豪を切り従え、居城としての龍造寺佐賀城を築きます。ここで史実として押さえておくべきは、龍造寺隆信の母は夫を亡くしそのとき亡き主人(夫)の菩提を弔う身でした。ところが重臣であった鍋島清房とその子直茂の武勇と才に惚れ込み、父子を完全に龍造寺家に取り込みたいと考えた彼女は、正室が亡くなった鍋島清房のもとへみずから進んで後妻としておさまります。
のちに龍造寺隆信がなくなりその嫡子が幼少病弱であることにつけ入って、重臣の鍋島氏が実権を奪ったと歴史には記されています。たしかにそこは事実なのですが、上に書いたような経緯で、龍造寺家側から鍋島家を親戚として取り込み、鍋島直茂が龍造寺隆信の義弟になっていたのも事実です。
また直茂は隆信のもとで獅子奮迅のごとく戦働きをしたとの記録はありますが、主君を討ったとか毒殺したとか黒い記録はありません。それゆえ隆信が亡くなれば、義弟の直茂が家督を継ぐことに無理はなく、いわゆる下克上とは意味合いが違うといえます。さらに龍造寺時代よりも領民にとって善政であったならば、これはめでたしめでたしの歴史だったのかもしれません。
その鍋島直茂が龍造寺佐賀城を改修して造り上げたのが、この佐賀城です。

佐賀城へ

堀の内側にのこる大楠 / 右は県庁関連ビル

佐賀城は高度のない平地につくられた平城ですが、幅50m~80mの堀と、堀の外から城内を見えないように遮断するために植えられた楠の木立が特徴です。

鯱の門手前にある鍋島直正像

こちらは佐賀10代藩主・鍋島直正の像です。
直正は江戸末期から明治維新にまたがって活躍する佐賀藩最後の藩主ですが、当時破たんが確実だった藩財政の立て直しに奔走するだけでなく、大砲(アームストロング砲)や蒸気船を自藩で製造するなど産業の発展につとめる一方、藩校として弘道館を創設して人材を育成し(大隈重信らを輩出)、また天然痘撲滅のため力を注ぐなど名君として知られています。

鯱の門と続櫓、天守台と石垣

続櫓(左)と鯱の門
鯱の門から石垣
天守台
天守台の石垣部から鯱の門を見る
天守台横の虎口
虎口から入ってみます
天守台が先に見えます

鯱の門から入るとまず二の丸に足を踏み入れることになりますが、このルートだといきなり本丸に上がってきたことになります。
いまはありませんが、当時はここにも堅牢な門が存在したのでしょう。

本丸跡、本丸御殿

本丸跡地と再建された本丸御殿
西南隅櫓跡に立ち、本丸跡を見る
西南隅櫓跡より土塁と堀を見る /水堀は 幅80m
石積水路 / 本丸へ水を引き込む施設と考えられる

本丸御殿

本丸御殿 / 鯱の門から入るとこのように見えます
本丸御殿内
本丸御殿の障子を開けて外を見る

この御殿内はもともとそうだったのかたいへん質素な造りで、眼を奪われるというほどの造作はありません。
しかし展示品にはなにかしら興味深いものがありました。そして何よりも特筆すべきは、(もちろん当時とは違うのでしょうが)廊下が畳敷きになっており、足裏が冷たくないので冬でもゆっくり見学できます。

長崎街道

旧長崎街道

小倉と長崎をむすぶ「長崎街道」は佐賀の城下を通っていました。一部に古い街並みを保存、再現しています。

江戸時代中期に佐賀鍋島藩士・山本常朝が遺した「葉隠」という書物があります。おもに武士とはいかに生きるべきか、その心得を記したものですが、そのなかに有名な一節「武士道と云うは死ぬことと見つけたり」があります。

旧古賀銀行 / 現在は歴史民俗館

この言葉は、目的達成のためには死を厭うなとか、主君のためには死を恐れず行動すべしなどと誤って解釈されている向きがあります。
本当のところは、常に死を見つめることによって、生死を超越した心境にいたり、すなわちこちらを選択すれば生きられるとか死ぬ覚悟であちらを選択すべきかといった迷いはなくなる、それでこそ武士として恥じることなく生きてゆけるという意味です。

【アクセス】JR佐賀駅からスタートし、佐賀バルーンミュージアム→佐賀城址→佐賀歴史民俗館(長崎街道)→同駅へ戻りました。
【満足度】★★★☆☆