幕末京都の新選組を見てあるく

【京都市 2024.12.31】
幕末から明治維新への時代の推移とは、そもそも徳川幕府の力が衰え国政をになうことが覚束なくなってきたことから、幕府の老中・安藤信正がすすめた幕府と朝廷が融和して国政を行おうとする公武合体の動きに端を発します。
これに対して薩摩藩の島津久光はおなじ公武合体でも朝廷と幕府に雄藩もくわわる新バージョンを提唱。
ところが尊王思想にどっぷり浸かった勤皇派(とくに長州藩)にとっては朝廷・天皇と幕府・将軍を同格に据えるとはもってのほか。さらに当初は尊王とは攘夷の考え方が主流であったため幕府が外国に対して媚びへつらう(かのような)姿勢を目の当たりにして怒りが爆発。ついに長州藩を中心とした勤皇派が倒幕派となって暴走をはじめます。
それに対して幕府と関係のつよい会津藩や桑名藩は佐幕派となって対抗、刃傷沙汰がついには市街戦へと拡大してゆきます。

※ひとくちに攘夷といっても戦争をしてでも外国を追い払おうとする先鋭的もの、相手有利の一方的な条約は破棄するといった穏便なもの、その考え方はさまざまでした。
※佐幕派には尊王思想はなかったのかというとそうではなく、勤皇派のように明確に打ち出していないだけで当時は多かれ少なかれ日本人はみな尊王思想が基本にありました。
そんな中で、主義あるいは思想として幕府をまもろうとしたのか、攘夷だとか開国だとか少しでもアタマのなかにあったのか、なんとも疑問だらけの、そして得体のしれない存在として歴史にのこるのが新選組です。

<今回は歩いた順ではなく、話が分かりやすいよう画像を並べ替えています>

京都

JR京都駅前

大晦日であればさすがに京都市内も混雑はなかろうと考え、あえて今日出向きました。
自宅から京都へ向かうときはおおむね京阪電車をつかいます。それゆえJR京都駅前を正面から見る機会はあまりないので比較ができませんが、少なくとも混雑の様子はありません。

壬生・島原

当時のものが今ものこる花街島原の大門
輪違屋 / 当時の置屋、いまも茶屋として営業

幕府は京都での治安維持という名目で反幕府勢力に監視の目をひからせるため京都見廻組を創設します。
おもに武家の次男や三男で構成された、れっきとした幕府お抱えの警察のようなものです。
その京都見廻組が京都市内を警備することになりますが、それだけでは万全とは言えずあらたに浪士をあつめ「浪士隊」を組織します。
ところがさすが人に仕えることに向かない浪士集団だけあって江戸から京都へ派遣された時点で幕府の方針に反発して解散、そのなかの一部が京都守護職であり会津藩の藩主である松平容保かたもりの目にとまり、会津藩預かりのかたちで新選組の名乗りを上げます。

すなわち京都見廻組がエリート集団であるのに対して、新選組は落ちこぼれ集団の感はぬぐえず、見廻組が御所や二条城など政治の中枢を警護するのに対して、新選組は商店街や歓楽街など庶民の生活に密着した場所に目を光らせることになります。
新選組が立ち上げ当初に花街・島原に隣接する壬生みぶに屯所を置いたのは、そのためでしょうか。

ところが新選組の面々(なかでも芹沢鴨)は花街警備ではなく花街通いに明け暮れます。
そもそも浪士隊に加わったのも主義・思想がどうこうではなく、他人の金で飲んで遊んで享楽的な日々を送れると考えたからではないかと邪推したくなります。
他人の金といえば、会津藩から給付される金だけでは足りないのかたびたび京都や大阪の豪商をおどし、協力金として多額の金を巻き上げています。こうなるとみかじめ料を要求する元祖やっちゃんのようなものです。

当時の建物が現存する揚屋(料理屋)の角屋
新選組が宿所としていた八木邸(奥)

新選組の最初のかしらである芹沢鴨の行状はとくにひどく、粗暴なだけでなく酒乱で好色で激高しやすい狂人のごとくで、それでなくてもよろしくない新選組の評判をいよいよ地に落とし雇用主の松平容保も見過ごせないほどになります。
芹沢は角屋での宴会の席でさんざん酔って暴れて宿所(八木邸)にもどり、輪違屋からよんだ遊女もふくめ複数の女たちとさらに飲んで騒いで同衾し寝入ったところを刺客におそわれ惨殺されます。
もっとも暗殺の理由は芹沢の悪業だけではないかもしれません、これを機に近藤勇と土方歳三が新選組を率いてゆくことになります。(近藤が局長、土方が副長)

壬生寺

新選組の調練所として使われていた壬生寺
一角には新選組に関する塚(墓)などもある
近藤勇の胸像
現存する写真のものに似ています
土方歳三の胸像
やたらキムタクに似ている?

西本願寺

西本願寺
太鼓楼

池田屋討ち入りの評判で入隊志願者がふえ、新選組は壬生の駐屯所が手狭になったことから西本願寺へと移動します。
写真にある太鼓楼と、現存しない北集会所とを使っていたようですが、新選組の面々は境内で実弾演習をしたり(空砲でしょうが)大砲をぶっ放したりのやりたい放題。住職や僧侶らは生きた心地もしない日々を送ったということです。

ところで新選組はなぜ壬生を離れると、この西本願寺に移ってきたのでしょうか。たとえばすぐ近くには同規模の東本願寺もあります。
豊臣秀吉の援助で浄土真宗本願寺派が京都に本山として建立したのが西本願寺(正式名称は龍谷山本願寺)です。江戸時代になってから徳川家康に支援されて浄土真宗大谷派は本山として東本願寺(正式名称は真宗本廟)を建立します。
そのため東本願寺は江戸時代を通して恩義を返すよう徳川幕府に忠誠をつくします。逆に西本願寺は豊臣家に恩義があるのでどうしても徳川幕府に対しては背中を向けがちです。私見ですが、そんなところから徳川幕府は狂犬のごとき新選組を西本願寺に押しつけたのではないでしょうか。

本光寺

本光寺
伊東甲子太郎絶命の地

芹沢鴨を誅殺したあと新選組は規律を厳しくしますが、逆にあまりにも厳しく組織内での粛清や抗争が横行します。
池田屋討ち入りで名を上げてからも、たとえば新選組を離脱して御陵衛士(天皇の御陵をまもる職)となった伊東甲子太郎が、倒幕思想をもち薩摩藩と関係していると近藤勇は情報を得ます。(この情報自体が捏造ではないかとの説もあります)
近藤は自分の妾宅に伊東をまねいて酒をのませ、酔って帰るところをここ七条油小路の本光寺まえで隊士に謀殺させます。
それだけでなく伊東の死骸をその場に放置し、引き取りに来た仲間(伊東とともに脱退した元隊士)をも切り捨てます。

長州藩邸跡と池田屋

長州藩邸跡は有名高級ホテルに
かたわらには桂小五郎(のちの木戸孝允)の像
近くに、池田屋跡 / いまは同名の居酒屋として営業

壬生でくすぶっていた新選組はこの地にあった旅籠・池田屋で長州藩士(およそ30人)が謀議をもっているとの情報を得ます。
予定では会津藩士の応援を待つはずが、近藤勇は新選組隊士のみ10名ほどを率いて急襲、相手の半数近くを討ち取り、あるいは捕縛に成功します。

この討ち入りのはなばなしい成果で新選組は世間の注目を浴びますが、会津藩士の応援をまち殲滅あるいは全員捕縛がほんらいの目標であったなら、新選組は功名心にはやって抜け駆けしたということになります。
また長州藩士はこのとき御所の放火と天皇の拉致を謀議していたとされ、その天下の謀反を未然に防いだことから新選組がたかく評価されるのですが、池田屋で御所の放火や天皇拉致を謀議していたという証拠はどこにもありません。

京都御所・蛤御門

京都御苑の西側に位置する蛤御門
入って直進すると左側に御所がある
門扉にのこる銃弾痕

禁門の変(蛤御門の変)の前年、穏便な攘夷思想で公武合体をすすめる会津藩と薩摩藩が、過激な尊王攘夷思想で突っ走ろうとする一部の公家とその後ろ盾となった御所の警備を担う長州藩を京都から追放します。
翌年になるといったんは長州に蟄居していた長州藩の面々が京都に戻りはじめます。そもそもの目的は自藩の名誉回復と御所警備への職務復帰を陳情するためだったようです。
長州藩内でも穏健派が強硬派の暴走を懸念していた矢先に、先に書いた池田屋事変がおこり会津藩預かりの新選組が長州藩士を殺害・捕縛したことから強硬派が暴発、ついには長州藩全体が戦闘へ突き進みます。

長州藩士は蛤門、立売門を突破して公卿屋敷に陳情書を渡すなどの行為は強攻していますが、天皇のおられる禁門(皇居、御所)には進軍さえしていません。
このことから考えても、新選組が池田屋に討ち入ったのが長州藩による御所への放火と天皇の拉致を未然に防ぐためというのでは辻褄が合いません。

ところで禁門の変における新選組の活躍ですが、配置された場所が激戦地からはなれており働きようがなかったといった程度の記録しか残っていません。
京都市南郊の伏見からさらに南西へ(大阪へ)向かうと天王山がありますが、山の中腹に「十七烈士の墓」があり、会津藩と新選組に追尾された長州藩の残兵17人が一戦を交えたあとここで自害したという説明書があったのを記憶しています。もっともこれも詳しく調べてみると、会津藩と新選組が追尾して居場所をみつけたところすでに自害したあとだったと書かれた資料もありました。

土佐藩跡と近江屋

高瀬川沿いのこのあたりに土佐藩邸があった
近くに、近江屋跡 / 奥の店はいまはカラオケ

禁門の変から3年後に、いまは京都一の繁華街になっている河原町通りにあった近江屋で坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺されます。
実行犯についてはいまだに不明、京都見廻組の犯行ではないかとの説が有力ですが、新選組の手によるとする説もあります。そのなかで浅田次郎氏の小説「壬生義士伝」のストーリーはユニークです。
犯人は新選組きっての手練れである斎藤一とし、斎藤は身分を偽ったうえ大胆にも新選組が龍馬の命を狙っているという情報をえて護衛のために遣わされたと近江屋を訪れます。そのさい斎藤はガチガチの左利きであったため刀を右手に持っており、これは相手に危害を加えない意思表示になるため難なく二階にあがり、殺気を完璧に消したうえで右側に鞘ごと刀を置いて龍馬と対坐し – – – よくできた話だとは思うのですが、どうやら実存の斎藤一は左利きではなかったようです。

【アクセス】京阪七条駅~本光寺~西本願寺~壬生~六角獄舎跡~京都御苑(御所)~薩摩藩邸跡~長州藩邸跡~池田屋跡~土佐藩邸跡~近江屋跡~京阪三条駅 / 22000歩
【入場料】壬生塚・資料館 200円
【満足度】★★★★☆