大宰府をあるく・政治と軍事
【福岡県 太宰府市 2025.7.8】
大宰府というと、菅原道真と天満宮が当然のように思いだされるかもしれませんが、菅原道真が大宰府に左遷されたのは西暦でいうと901年、太宰府天満宮はその18年後に道真の墓のある場所に安楽寺天満宮として建立したのが始まりです。
それにたいして大宰府は大和朝廷が九州を統括管理するためにつくった地方行政機関で、創始は7世紀後半ですから天神さんより2世紀以上も前ということになります。
道真の大宰府への左遷ですが、表向きは大宰権帥という役職での赴任。
元来大宰府での役職は大宰帥がトップではあるものの、この役職は形だけ(すなわち名誉職)であってナンバー2の大宰権帥が実務を取り仕切っていたという見解もあり、また大宰帥が実務をおこない大宰権帥は代役にすぎずたいていの場合は空席だったとの意見もあります。
どちらにしても道真が与えられたのは完全な閑職、しかも役職に見合った報酬も与えられず日々の生活にも困窮したようです。
ところで12世紀に平家が急激に勢力をのばし一時的にせよ日本を支配下におきますが、その平家が急成長したのは平清盛が大宰府をみずからの管轄下に置いて貿易による富を独占したことが大きく関わっています。
(このとき清盛がついた役職は大宰大弐、大宰権帥よりひとつ下位になりますが時代が変わって役職のありかたにも変化があったのでしょうか)
その清盛が宋との貿易の都合上、海沿いの博多を重視して都市機能すべてを移転したため、ここから大宰府は衰退の一途をたどることになります。
※古代の行政機関としては「大宰府」と記し、現在の地名としては「太宰府」と記すのが通例のようです。
そのため歴史上の遺構としては「大宰府」、太宰府市にある神社ということで「太宰府天満宮」としています。
水城
大和朝廷が九州地方を統治するための政治拠点としてつくったのが筑紫大宰。
そのころ朝鮮半島において百済が新羅と唐に蹂躙されていたため日本軍は救援に向かいますが、惨敗。百済は滅亡し、日本は朝鮮半島からの撤退を余儀なくされます。(これが白村江の戦い)
この敗戦をうけ新羅と唐の進攻にそなえて周辺の防御機能を充実させ、さらに8世紀初頭に制定された大宝律令のもと、外交よりも天皇を中心にした中央集権国家設立のため内政に力をそそぐことになり、筑紫大宰をより拡充させ碁盤の目ように整った行政都市をつくり上げます。
こうして筑紫大宰はおおきく生まれ変わって大宰府と呼ばれるようになります。
また大宰府は九州の政治拠点というだけでなく、「西の都」と呼ばれます。

水城とは堤(土塁)と濠をあわせた防御施設の総称です

現在の車道が大宰府への道で、ここに東門があった

堤の規模は基底部幅80m、高さ10m、長さ1.2km

濠は幅60m、水深4m


政庁跡(都府楼跡)



大宰府というと、冒頭でも書いたように太宰府天満宮→菅原道真と意識がはたらき、なんとはなく平安時代に思いをはせてしまいがちですが、創設されたのは7世紀後半から8世紀初頭。
すなわち平城京に遷都する(710年)のと同時期ですから、その平城京が唐の長安を模してつくられたように、大和朝廷の権威を誇示するため巨大な政庁をかまえたことは容易に想像がつきます。
大宰府政庁跡の建物を実物として見られないか考えてみたのですが、好例に思いいたりました。
以前たずねた奈良の平城宮の復元建物をお見せします。

時期的にいってもこれと近いものだった推測できます
大野城
大宰府を北と南で守るように大野城と基肄城がつくられました。
今日は北方の防御の要である大野城をたずねてみます。


倉庫跡の一角 / 炭化した米が見つかった








ずいぶん昔の遺構ですから完全な姿で見られるはずもないのでしょうが、それにしても物足りない。
街中にある水城と政庁跡は近代の開発で見る影もなくなっているのは想定していましたが、大野城はもうすこし遺構が残っていると期待していただけに残念です。
(翌日たずねた基肄城がすばらしかったことを書き加えておきます)
ところで大宰府一帯は「古代の西の都」として2015年に日本遺産に認定されていましたが、今年(2025年)2月に文化庁からその認定を取り消されたそうです。
おもな理由は、①構成団体間の連携不足、➁人気のある施設(太宰府天満宮)から周辺への誘導が不十分、とのこと。➀についてはよくわかりませんが、➁についてはたしかに道案内ひとつとっても不便、ましてや移動となるとマイカーか歩くか – – – 予定では丸一日かけて歩くつもりでいたのですが、この日の太宰府市の最高気温は37度、死にたくないのでレンタカーを借りてまわりました。
【アクセス】レンタカーでまわる
【料金】有料施設には入らず
【満足度】★★★☆☆