織田信長の謎・信長の死体はなぜ見つからなかったのか

2023.2.16記

織田信長の像

織田信長の像はいくつもありますが、愛知県清須市の清洲城ちかくにある像は、正室・濃姫と向かい合うように立っており、また人間離れした偶像的なものでもなく、しげしげと見とれてしまいました。

画像は【aruku-72】より
https://yamasan-aruku.com/aruku-72/

信長の死体はそこにあった

最初に解答のようなことを言ってしまいますが、信長の死体はたしかに本能寺の現場にあったはずです。いえ、ありましたと断言できます。
信長は明智光秀の軍勢が本能寺境内に乱入してきた際、みずから弓や槍をとって防戦します。しかし防ぐことも逃げることも不可能と判断すると、すみやかに建物の奥へ引きこもります。そして近習のものに急ぎ建物に火を放つよう命じたうえで、腹を切って自害します。
建物を燃やすだけではなく、自分の遺骸にも油をかけて見分けがつかないまで焼くことを指示したと思われます。それゆえ戦闘がおわり、燃えあがる建物が鎮火して信長の死体探しがはじまった時には、黒焦げの死体はあるものの、どれが信長なのか到底判別できない状態だったでしょう。

明智光秀にとっては、仮に背格好からそれが信長の死体に違いないと推測しても、決定的な証拠がなければそれは信長らしきものであって、信長ではありません。かりに光秀が秘密のDNA鑑定のような検査キットを持っていて、これこそが信長の死体だと自分なりには断定できたとしても、すべての人に対してホラこれが信長の死体ですよと目にみえる形で示せなければ意味がありません。
言い換えるなら、信長としては絶対に自分の死体を、信長の死体とわかる形で残したくなかったということになります。それではなぜ信長は、死ぬ間際になってまで自分の死体の処置にそこまでこだわったのでしょうか。その謎を探っていけば、本能寺の変の闇がすこしは透けて見えてくるようにも思います。

本能寺跡をしめす石碑

当時の本能寺の跡地には住宅や介護施設、学校が立ち並び、面影はなにもありません。
画像は【aruku-36】より
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京都市役所近くにある本能寺

いまある本能寺は、信長の死後10年ほどたったころ、秀吉の命により移築させられたものです。
画像は【aruku-1】より
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信長が明智光秀に出陣を命じたときの状況

本能寺の変の二ヶ月ほど前、信長は長年の宿敵である甲斐の武田氏を滅ぼし、ひとつ肩の荷がおりたのか東海地方をおさめる徳川家康の接待を受けながら富士山見物を楽しみます。
そのときの家康の心のこもったもてなしに感激した信長は、まだ築城まもない安土城へ家康を招待します。このとき饗応役を受けもったのが明智光秀です。ところが家康が安土城に到着したのに合わせたかのように、備中高松城(いまの岡山県)をはさんで西国の雄・毛利氏の軍勢とにらみ合う羽柴秀吉から援軍の要請が急使により届けられます。
これは本能寺の変の2週間前のこと。信長、光秀、家康、秀吉の四名が直接、間接の違いこそあれここで交錯することになります。こういったところが歴史探訪の醍醐味で、多くの作家や歴史研究者が、本能寺の変の真相にこの四名をからませて推理を展開しています。

ここでは記録されている史実にしたがって話をすすめます。このころ信長がもつ主要な軍勢は、たとえば柴田勝家は上杉に対抗して北陸方面へ出陣中で、滝川一益は関東へ、次男の織田信雄は伊勢で治世をすすめており、三男の織田信孝は重臣・丹羽長秀を後見役に四国へ長曾我部氏を攻めるべく準備中でした。そして羽柴秀吉は中国地方におり、長男の織田信忠は武田征伐の一番の功労者で、このときは軍務を解かれ、すなわち配下の軍勢は居城のある岐阜にいました。
そうなると即座に動かせるのは、明智光秀の1万3千の軍勢しかありません。しかも明智軍は信長配下では1,2を競う精鋭であり、さらに信長は西国を平定してゆく上で、山陽側は秀吉に、山陰側は光秀に担当させるよう企図していたため、ここで明智軍を中国地方へ向かわせるのは、早いか遅いかの問題でしかありません。信長は即座に光秀に対して家康饗応の役を解き、秀吉援護のための出陣を命じます。

安土城址 / 秀吉の屋敷があったとされる辺り

画像は【aruku-22】より
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亀山城 / 光秀はいったん居城にもどりここから出陣した

画像は【aruku-2】より
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信長はなぜ京都に立ち寄ったのか

明智光秀が出陣準備のため居城の亀山城(現在の京都府・亀岡市)に戻ると同時に、信長は家康の接待を終え、自身も中国地方へむかう準備をはじめます。もっともこの頃の信長は戦そのものは家臣たちに任せ、自分自身は必要とあらば後方から威光を放って相手をすくませるかのように、時間差をもうけて出てゆくのが常となっていました。2か月前の武田征伐がその良い例で、長男・信忠らの働きで武田軍を壊滅させたあと、現地にのこる敵残兵や土豪を無言の圧力で従わせるべく、余裕をもって出向いたにすぎません。
おそらくはこの中国出陣も同じような心持でスタートしたのだと思われますが、このとき安土から途中の京都で短期間の滞在をすることになります。このとき滞在したのが本能寺であり、そこから本能寺の変といわれるようになるのですが、ではなぜ信長はわざわざ出陣の途中に京都へ立ち寄ったのか。

信長はこの5年前に従二位と右大臣の官位を朝廷から授けられています。このうち右大臣については、過去に武家としてそれ以上の地位に就いたのは平清盛や源実朝などわずか数人しかいないほどの高貴な官職です。
ところが信長は翌年にはその職をみずから辞し、以後ずっと要職につくことなくいまに至っています。徹底した合理主義の信長としては、右大臣だの従二位だのといっても小判一枚生み出すわけでもなく、しゃらくせえとなったのでしょう。
しかし朝廷サイドとしてはこのまま放置するわけにはいきません。表向きにはいろいろ理由はあるでしょうが、突き詰めてゆけば、当時の朝廷にとってはこうした官位を与えることで、相手から謝礼を受け取るのが最大の収入源になっていました。この謝礼は一回こっきりなものではなく、朝廷からいただいた地位を誇りとし折を見ては心付けをしてくれます。武家として最高位にちかい官位を与えたはずの信長が、その官職を早々に辞したのは、朝廷サイドにとってはまったくの予想外であり計算外であったはずです。

さて朝廷サイドはよほど苦慮し、さらに熟慮したのでしょうか、信長に対して関白、太政大臣、征夷大将軍という間違いなく最高位といえる三職の内、いずれか望みのものに就くよう打診します。これが史実にのこる「三職推任問題」ですが、どうやら信長は朝廷からのこの推任にたいして返答をするため京都に足を留めたようです。

それでは信長の返答はどうだったのかというと、本人が返答する前に光秀の謀反により死んでしまったため、真実はわかりません。そこで推測してみます。
関白は帝(天皇)を補佐する役であり、太政大臣は官位の上では最高位に位置する名誉職です。しかしどちらにしても朝廷内での話にすぎません。関白に就けば毛利や上杉が無条件でひれ伏すわけでもなく、太政大臣になったからとて領土がひろがるわけでもありません。超合理主義の信長から見れば、それらは実益のない虚飾の官位と映ったことでしょう。
征夷大将軍は鎌倉幕府をひらいた源頼朝以来、その役に付いたものが幕府をひらき、さらに幕府の長である将軍として日本全体をおさめることが認められます。だれから認められるかというと、帝からであり、その帝を補佐する公卿からなので、結局は朝廷の下につくことになります。
そもそも征夷大将軍にしても、天下平定のメドがまだ見えない段階であれば、朝廷のお墨付きをもらって一気に推し進めることを考えたかもしれません。しかし畿内一円だけでなく、武田氏を滅ぼし、本願寺も追いやり、天下平定にそろそろ王手をかけた信長にとっては、征夷大将軍なんぞ今更という気持ちだったのではないでしょうか。
すなわち、三職すべて辞退申し上げる。

信長木座像(レプリカ) / 岐阜城資料館
信長木座像は、大徳寺総見院で毎春秋特別公開されます

画像は【aruku-35】より
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信長はなぜ京都に滞在したのか

三職推任について完全に断るのであれば、使者をとおして返答すれば事足りるはずですが、それではなぜ信長は京都に立ち寄るだけでなく、本能寺を宿舎として滞在したのでしょうか。
このとき信長は自身が所有する茶道具のうち名品中の名品38点を、安土城で厳重に梱包したうえで本能寺まで運び込んでいます。そして天正10年(1582年)6月1日、本能寺の変がおこる前日に公卿40名を招待して茶会を催します。もっとも茶会とは名ばかりで、松花堂弁当程度の食事と茶をくばり、それが終わると40名の公卿は、一部屋に集められた38点の名物茶道具と対面することになります。

このころ信長は勢力を拡大し領土を増やしながらも、養う家臣や近習の数も急激に増え続けるため、恩賞としてあたえる領地(土地)が足りないという問題を抱えていました。そこで考え出したのが、茶道具の中でも名品を選りすぐって集め、それを土地の代わりに与えることです。いまの価値観で言えば、なにやら騙されているかのようですが、当時は一国をもらうよりもあの名物茶椀がほしいというような声がひんぱんに聞かれるほど、茶道具には非常識なまでの価値と人気がありました。
信長が本能寺に運び込んだものは、その中でも飛びぬけた名品ぞろいで、どれもが一国の価値に相当するものばかりです。それが38個並んでいるのですから、一室に38の国を並べて見せたほどの衝撃度があったことでしょう。

信長はここで何をねらったのか。主だった公卿をあつめ彼らの度肝をぬいて圧倒することが目的だったのに違いありません。信長はお前たちの下に立つものではない、三職などどれも要らない、今後は黙って信長のやるように任せろ、そう脅すにも相手が朝廷では武力を使うわけにはいきません。そこで名物茶道具の数々を見せる(見せつける)ことで、その財と力を存分に思い知らせたのです。

岐阜駅前にたつ黄金の信長像

岐阜駅前には黄金の信長像がたっています。像自体が3m、台座が8m、そして黄金ですからとにかく目立ちます。
ところでこのド派手な像ですが、地元の岐阜新聞と、名古屋の中日新聞とのし烈なシェア争いから、より自社が目立つようにと一方の新聞社が核になって資金を出し、この写真には写っていないその新聞社の駅前ビル広告とばっちり重なるように立てたそうです。

画像は【aruku-18】より
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こちらの画像には、○○新聞の広告が後方にばっちり見えます。

信長はなぜ本能寺に滞在したのか

信長が京都に滞在するさい常宿としていたのは、それまでは妙覚寺でした。しかし無防備すぎると考えて近くにある広大な本能寺に高い塀をたて、外周に堀をめぐらせ、城郭風のものに仕上げてここに滞在するようになります。
このたびの京都滞在のおりには近習のものを100人程度(70人、150人など諸説あり)連れていただけなので、信長に油断があったのではないかとの意見もありますが、それまで信長が宿泊につかっていた近くの妙覚寺には、長男の信忠が500人の兵を従えて守り、ほかにも信長直轄下にある京都守護兵が町を見回っています。

もうひとつ押えておくべきは、京都だけでなく、京都を中心としてもその半径100~200kmは信長の支配下にあり、敵の大軍勢が突然わきたって襲来するようなことは万に一つもありえない状況でした。もし信長暗殺(謀殺)計画があったとしても、三人五人と目立たないように京都に潜入してのことですから、どれだけ集まっても数十人からせいぜい数百人程度でしょう。その人数で本能寺を囲んでも、堀と塀を相手に苦戦しているうちに後ろから信忠の軍兵に攻めたてられるのがオチです。
このとき信長には油断はありませんでした。
ただ本能寺から24km離れただけの亀山城に集結する1万3千の軍勢が、備中高松城をめざして西へ向かうのではなく、本能寺をめざして東へ走ることは予想もしていなかったはずです。

妙覚寺 / 当時のものはなく、移転建立されたものです
寺とはいえ、門の上には守備兵が潜めるようにしている

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信長は本能寺でなにを見たのか

天正10年6月2日夜明けごろ、信長は物音で目を覚まします。最初はだれか喧嘩でもしているのかと思い、そばに控える森蘭丸に確認するよう命じます。
物音はしだいに大きくなり、鉄砲の音も聞こえるようになったころ、蘭丸が駆け戻り「水色桔梗紋の旗が」と報告します。明智光秀の軍勢です。
ここから信長は弓と矢を手に建物の縁まで進みでて、みずから矢を射て防戦します。弓の弦がきれると槍にもちかえさらに奮戦するのですが、腕に深手を負いもはやこれまでと悟ると、自害するため建物の奥へと入ります。
この間は瞬時ではないはずで、なぜ光秀が謀反したのか、そのことを考える時間はあったはずです。

長年仕えた光秀を見てきて、光秀はひとりで謀反をくわだてる男ではない。
自分が京都に立ち寄り宿泊することは(暗殺を避けるため)公にしていない。それゆえ光秀が知っているはずがない。
しかし昨日公卿をここ本能寺に招いたので、公卿連中だけは信長がいま本能寺にいて、わずかな近習とともにここで泊まることを当然知っている。
ならば、この謀反の背後には朝廷が – – –

朝廷が信長殺害を命じたのであれば、それは勅命となります。勅命は天皇からの命で、主君からの命よりも優先されます。同時に勅命に従うのであれば、主君を殺すことも謀反ではなく誅殺となり、悪しきものを退治する正当な行為になります。
言い換えれば、織田信長は勅命によりこの世から排除された極悪非道の人間だったと評価されることになります。
勅命により殺されたという事実を認めさせないためには、いま死から逃れられない以上、死体を残さないことです。信長の死体がないのであれば、信長が死んだことは事実であっても、死体を晒して信長の罪を喧伝することはできません。
信長は建物に火を放ち、自分の遺骸にも油をかけて燃やすよう命じたあと、みずからの腹に白刃を突きたてます。

京都・阿弥陀寺/この寺の清玉上人が信長の死体をもち帰り
ここに埋葬したとの説もあります / 信長の墓

【補足】

ここに書いたことは、「信長の死体はなぜ見つからなかったのか」の謎解きから出発し、つねに信長の側から推理をすすめ、「信長は光秀謀反の背後に朝廷の存在を見たのにちがいない」と結論したものであって、明智光秀の側からみた場合には、朝廷にそそのかされて(後押しされて?)信長を誅殺するつもりで殺害したとはいまだに確信できずにいます。

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織田信長

Posted by 山さん