2023.1.25 記 荒木村重 /... Read More | Share it now!
濃姫(帰蝶)の謎・濃姫はどこへ消えたのか – 雨読寸評 1
山岡荘八氏の小説『織田信長』では、濃姫は本能寺の変の際にも信長と行動をともにしており、その事変では自ら薙刀をふるって奮戦したことになっています。この薙刀をふるってというのは、のちの世の講談などで語られたもので、完全な創作ですからあり得ない話です。山岡氏の『織田信長』は時代考証はずいぶん大雑把で、そんなわけないだろうと突っ込みたくなる部分もあるのですが、とにかく読んでいておもしろい。なぜ面白いかといえば、山岡氏が当時を代表する国民作家であったためか、読者を楽しませることを主眼にしているようです。よほど信長のことが好きなのか、信長のよい面が前面というより全面に出てきて、さらに濃姫にいたっては読みながら恋心を覚えるほどに魅力的です。先にも書いたように時代考証については十分とは言い難いですが、小説が書かれる本来の目的である「読んで楽しい、おもしろい」という意味では良品だと思います。山岡荘八『織田信長』 ★★★★☆鈴木輝一郎氏の小説『信長と信忠』は、信長と信忠がW主役かと思って読んでみたところそうではありませんでした。父信長の目を通しての跡取り息子信忠を描くというというのが表向きで、その実は信長が信忠の成長を見ながら単純に喜ぶのではなく葛藤する姿を描き、父信長さらには人間信長を斬新な切り口で読者の前にさらして見せる、といったところでしょうか。残念ながら信忠の描き方があいまいで、とくに父信長の強烈な個性をどのように受け止めているのかがはっきりしないので、信忠もぼんやりしていれば、その信忠を見つめる信長に対しても何に葛藤しているのか感情移入ができません。その意味ではわざわざ評価する作品でもないのですが、ここに登場する、しかも信長と信忠両者にからむ濃姫の存在感は圧巻です。信長が秀吉のいる備中高松へむかうに先立ちひとまず上洛しますが(このとき宿泊先の本能寺で討たれる)、安土城を発つ前に信長と濃姫がかわす会話は絶妙です。一部抜粋します。–... Read More | Share it now!
濃姫(帰蝶)の謎・濃姫はどこへ消えたのか
2022.9/10記 帰蝶から濃姫へ 濃姫像 /... Read More | Share it now!
宇喜多直家の謎・直家はどこまで冷酷非道だったのか
宇喜多直家の木座像 宇喜多直家の銅像やブロンズ像はどこにもありません。讃えるような人物ではないと評価され造られなかったものと思われます。この木座像は岡山市の中心街にある光珍寺に納められていたものですが、戦時下の空襲で寺の堂宇とともに焼失してしまいました。 画像は、wikimedia... Read More | Share it now!
羽柴秀吉の謎・秀吉は信長を殺したかったのか
羽柴秀吉像 秀吉の像に関しては、豊臣秀吉としてのものなら関西の各地にあります。ところが羽柴秀吉の像となるとまことに希少で、滋賀県の長浜駅前に石田三成と出会ったさいの「三献の茶」をモチーフにした二人像が唯一存在しました。実物は右側に少年の三成(佐吉)が居るのですが、そこはカットしています。 本能寺の変とは、京都滞在中の織田信長が明智光秀に急襲され殺害された事件をいいます。いまでは、その舞台が本能寺であったことと同じくらいに、殺害が突発的なものではなくあらかじめ謀られたものであったことも周知の事実となっています。すなわち故殺ではなく謀殺である、ということです。「謀殺」の「殺」については、明智光秀によるものと結論して間違いありません。では「謀」についてはどうなのか。光秀を操った人物がいた、あるいは光秀と共謀した人物がいたと考えられなくもありません。しかし確証はなく、「かもしれない」のレベルです。ところが、光秀の動きを、その心の動きにいたるまでを、本能寺の変の前から周到に視ていた人物がいたと仮定するだけなら無理はありません。その人物をHとします。そのHを秀吉(のちの豊臣秀吉、当時は羽柴秀吉)であったと仮定します。あくまで仮定です。しかしそう仮定することで、秀吉による備中高松城水攻め→光秀による本能寺の変→秀吉による中国大返し→秀吉と光秀による山崎合戦のあっけない結末、という一連の大事件のなかにしばしば感じる違和感が、そこではじめて、しかもなんともすっきり解消されてしまうのです。 山崎の戦い(天王山の戦い)・合戦前 淀川から山崎古戦場跡、背後に天王山をのぞむ 画像は【aruku-26】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-26/ 山崎の戦いで明智光秀が大敗したのは、一にも二にも味方になってくれる武将がほぼいなかったことに尽きます。たとえば、高山右近、中川清秀、池田恒興は光秀の寄騎でしたが、光秀に与しなかっただけでなく秀吉に加勢しています。寄騎とは、織田軍の総大将である信長が自分の家臣である各武将の中でもとくに有力と判断した、たとえば明智光秀を寄親とし、その下につけた暫定的な部下(助っ人にちかい)のことをいいます。すなわち寄騎としては、寄親である光秀にみずから臣下したのでもなく、信長がこの世からいなくなった以上従ういわれはないということになり、これは裏切りとか寝返りではありません。別の見方をすれば、かつて寄親でもなかった秀吉の下についたということは、光秀からは約束されなかった報奨にあたる何かを、秀吉からはもらえるアテがあったということではないでしょうか。 筒井重慶は光秀の寄騎であっただけでなく盟友であり親友でもあり、細川藤孝にいたってはさらに息子の忠興に光秀の娘が嫁ぐ(のちの細川ガラシャ)縁戚関係すらありました。筒井順慶がなぜ光秀に加勢しなかったのか、その真相はいまひとつわかりません。ただ後の世に悪評として残る、光秀につくか秀吉につくか損得勘定で日和見を決め込んだというのは事実ではありません。山崎の合戦まえに秀吉に対して「秀吉を支持するが光秀と戦うことはできない」という意味のことを伝えていたようです。細川藤孝はやはりどちらにも加勢しない代わりに、早々に剃髪して(表向き隠居して家督を忠興にゆずり)幽斎を名乗り、光秀からの勧誘にも要請にも懇願にもいっさい言わざる聞かざる動かざるを通します。この細川家というのは、清和源氏足利氏の支流で尊氏(たかうじ)の隆盛にオンブにダッコでのし上りますが、その後もアッチにつきコッチにつきを繰り返しながら室町、戦国、江戸、明治、大正と各時代を生き抜き、平成の時代にも総理大臣を出した名家です。それだけに代々形勢をみるに敏で、その方面の嗅覚がよほど鋭かったのでしょう、その細川家の、丹後の大名にまで成り上がった藤孝が光秀を無視して結果として秀吉に与したのですから、「明智光秀は負ける」という確たる予知があったということでしょうか。光秀軍の兵力1万数千に対して秀吉軍4万、この山崎の戦い、どうやら始まるまえから勝敗は決まっていたようで、秀吉があらかじめ地ならし的な準備をしていたように思えてなりません。 現在の洞ヶ峠... Read More | Share it now!
明智光秀を読みあるく – 雨読寸評 3
遠藤周作氏の小説『反逆』は、前半部では荒木村重、後半部では明智光秀に焦点を当て、信長に従っていた二人の武将がなぜ謀反に走ることになったのかを描いた作品です。作品の中では信長への忠節と反発、崇拝と畏怖、相反する感情がぶつかり合うそれぞれの心の葛藤を照らし出しながら話が時系列で進んでゆきます。時系列ですから先に反逆した荒木村重に前半部で焦点があたることになりますが、この前半部でも明智光秀は随所に登場します。すなわち光秀は信長の自分に対する仕打ちだけでなく、村重に対する仕打ちも、またそれに対して村重がどのように行動したかも見てゆくことになります。その意味では後半に焦点をあてられる光秀の方がより丁寧に描かれていると言えるでしょうし、実際のところ光秀の苦悩はより痛切に理解できるものになっています。また遠藤氏はクリスチャンですが、そのこともあって切支丹大名の高山右近が準主役のように随所に登場します。その右近の、立場が違うゆえに異なる葛藤と苦悩が描かれることで、作品にいっそうの厚みがうまれているといえます。30年以上前(1989年)に出版された作品ゆえ、史実の解釈に古さを感じるところもありますが、その分自分の足で歩いて調べている強みがあり、それも作品の魅力になっています。遠藤周作『反逆』★★★★☆嶋津義忠氏の小説『新装版 明智光秀』は、副題に「真の天下太平を願った武将」とあるとおり、光秀がこれ以上はないというほど立派な人として登場します。上洛した信長を本能寺で討つのも、私怨やまして野心などは毛頭なく、ただ天下太平のため。信長はたしかに戦においても政においても天才だが、天才ゆえに独善に陥り、諸侯も家臣も一般の民も恐怖で支配しようとする誤った道を歩みはじめた。それゆえ光秀が一命を賭してそれを阻止し、正しい道へ導かねばならない。このような決意を胸に立ちあがるのですが、良きにつけ悪きにつけ人間というものはもう少し複雑で、弱みもあれば屈折した面もあり、それだからこそ真の姿を探求するのに面白さがあるというものです。この作品のなかでの光秀の描き方はあまりに杓子定規で、良い人でも素敵な人でもなく、なんら魅力のないいわゆる立派な人でしかありません。人物を描くのが不得手のか、本来は準主役となるはずの信長はというと、描き方がまったく単調なため案山子(かかし)か電信柱をみているようです。そのため信長が独善に陥っているとも理解できないし、ましてや信長に対して感じるはずの恐怖もまったく見えてこないということになります。そこに杓子定規に描かれたロボット武将・明智光秀が我こそが天下太平のため、と大上段に構えても、なんだかなあで終わってしまいます。嶋津義忠『新装版 明知光秀』★★☆☆☆ 福知山城... Read More | Share it now!
明智光秀の謎・光秀はそれほど立派な人なのか
2022.12.21記 明智光秀像 JR亀岡駅を出ると、前方に丹波亀山城のうっそうとした藪が見えてきます。その一番前面で明智光秀の像が迎えてくれます。この像が建立されたのは令和元年(2019年)。翌年1月から大河ドラマで「麒麟がくる」が放映されることが決まっていたので、それに合わせて建立したのでしょう。どうやら昔から土地の英雄として称えられていたのではなさそうです。画像は【aruku-2】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-2/ 悪漢から好漢へ一転した光秀像 最近では明智光秀は、智と義と徳の名将、天下安泰をねがった英雄、といったような好人物に描かれることが多いようです。あるいは暴君信長に振り回され苦悩の末に家臣や領民のために決起した、あるいは奸計にはまり主君信長謀殺に利用された、なども光秀自身はけっして悪人ではなく、信長は殺されて当然だった、信長を亡き者にしたい黒幕がいたといった見解に立っています。なぜこれほど明智光秀が好漢として描かれるかといえば、かつてあまりにダーティーなイメージで塗りこめられていたため、まるで罪滅ぼしのようにダーティーなイメージを払拭し、クリーンに塗り替えることに躍起になったのではないでしょうか。そこには商業的な意味合いもあったはずです。京都市京北の慈眼寺には、全身を墨で塗られた光秀像があります。逆臣ゆえに誰かの手で黒く塗られたとも、逆臣ゆえにこの像が破却されることを危惧した誰かが黒く塗って隠したとも伝えられていますが、一時期はこの真っ黒に塗られた像が世間の光秀に対するイメージを象徴していたのではないでしょうか。そこに明智光秀はけっして悪人ではなかったという資料がつぎつぎに出てきます。そのとき「真実はこうだった」と言うに際して、その発表が衝撃的であればあるほど、言い換えれば真逆であればあるほど巷間の注目をあつめます。 京都市京北・慈眼寺... Read More | Share it now!
織田信長を読みあるく – 雨読寸評 5
京都・阿弥陀寺/この寺の清玉上人が信長の死体をもち帰り ここに埋葬したとの説もあります /... Read More | Share it now!
織田信長の謎・信長の死体はなぜ見つからなかったのか
2023.2.16記 織田信長の像 織田信長の像はいくつもありますが、愛知県清須市の清洲城ちかくにある像は、正室・濃姫と向かい合うように立っており、また人間離れした偶像的なものでもなく、しげしげと見とれてしまいました。画像は【aruku-72】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-72/ 信長の死体はそこにあった 最初に解答のようなことを言ってしまいますが、信長の死体はたしかに本能寺の現場にあったはずです。いえ、ありましたと断言できます。信長は明智光秀の軍勢が本能寺境内に乱入してきた際、みずから弓や槍をとって防戦します。しかし防ぐことも逃げることも不可能と判断すると、すみやかに建物の奥へ引きこもります。そして近習のものに急ぎ建物に火を放つよう命じたうえで、腹を切って自害します。建物を燃やすだけではなく、自分の遺骸にも油をかけて見分けがつかないまで焼くことを指示したと思われます。それゆえ戦闘がおわり、燃えあがる建物が鎮火して信長の死体探しがはじまった時には、黒焦げの死体はあるものの、どれが信長なのか到底判別できない状態だったでしょう。明智光秀にとっては、仮に背格好からそれが信長の死体に違いないと推測しても、決定的な証拠がなければそれは信長らしきものであって、信長ではありません。かりに光秀が秘密のDNA鑑定のような検査キットを持っていて、これこそが信長の死体だと自分なりには断定できたとしても、すべての人に対してホラこれが信長の死体ですよと目にみえる形で示せなければ意味がありません。言い換えるなら、信長としては絶対に自分の死体を、信長の死体とわかる形で残したくなかったということになります。それではなぜ信長は、死ぬ間際になってまで自分の死体の処置にそこまでこだわったのでしょうか。その謎を探っていけば、本能寺の変の闇がすこしは透けて見えてくるようにも思います。 本能寺跡をしめす石碑 当時の本能寺の跡地には住宅や介護施設、学校が立ち並び、面影はなにもありません。画像は【aruku-36】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-36/ 京都市役所近くにある本能寺 いまある本能寺は、信長の死後10年ほどたったころ、秀吉の命により移築させられたものです。画像は【aruku-1】よりhttps://yamasan-aruku.com/aruku-1/ 信長が明智光秀に出陣を命じたときの状況 本能寺の変の二ヶ月ほど前、信長は長年の宿敵である甲斐の武田氏を滅ぼし、ひとつ肩の荷がおりたのか東海地方をおさめる徳川家康の接待を受けながら富士山見物を楽しみます。そのときの家康の心のこもったもてなしに感激した信長は、まだ築城まもない安土城へ家康を招待します。このとき饗応役を受けもったのが明智光秀です。ところが家康が安土城に到着したのに合わせたかのように、備中高松城(いまの岡山県)をはさんで西国の雄・毛利氏の軍勢とにらみ合う羽柴秀吉から援軍の要請が急使により届けられます。これは本能寺の変の2週間前のこと。信長、光秀、家康、秀吉の四名が直接、間接の違いこそあれここで交錯することになります。こういったところが歴史探訪の醍醐味で、多くの作家や歴史研究者が、本能寺の変の真相にこの四名をからませて推理を展開しています。ここでは記録されている史実にしたがって話をすすめます。このころ信長がもつ主要な軍勢は、たとえば柴田勝家は上杉に対抗して北陸方面へ出陣中で、滝川一益は関東へ、次男の織田信雄は伊勢で治世をすすめており、三男の織田信孝は重臣・丹羽長秀を後見役に四国へ長曾我部氏を攻めるべく準備中でした。そして羽柴秀吉は中国地方におり、長男の織田信忠は武田征伐の一番の功労者で、このときは軍務を解かれ、すなわち配下の軍勢は居城のある岐阜にいました。そうなると即座に動かせるのは、明智光秀の1万3千の軍勢しかありません。しかも明智軍は信長配下では1,2を競う精鋭であり、さらに信長は西国を平定してゆく上で、山陽側は秀吉に、山陰側は光秀に担当させるよう企図していたため、ここで明智軍を中国地方へ向かわせるのは、早いか遅いかの問題でしかありません。信長は即座に光秀に対して家康饗応の役を解き、秀吉援護のための出陣を命じます。 安土城址... Read More | Share it now!
応仁の乱の謎・日野富子をどこまで弁護できるか
出家後の木坐像 日野富子の木坐像は京都・宝鏡寺にあり季節限定で開催される人形展の折に一般公開されます。しかし写真撮影禁止のため、この画像は≪WIKIMEDIA... Read More | Share it now!