武田信玄ゆかりの地をあるく3⃣恵林寺ほか / 信玄はたしかに英雄だった

【山梨県・甲州市ほか 2024.12.10~13】
武田信玄ゆかりの地を、1⃣で書いた武田氏館、2⃣で書いた要害山城につづき、いくつか回りました。順に書き出してゆきます。

甲斐善光寺

山門
山門から本堂をのぞむ

いまの長野市一帯は武田信玄と上杉謙信とが幾たびも干戈を交えた場所であり、そこに建立された善光寺に戦火が及ぶことを危惧し、まず謙信が本尊・善光寺如来を本国越後、いまの上越市の十念寺に移したとされています。
たしかに十念寺はそこから「浜善光寺」と呼ばれるようになるのですが、じつはその本尊は偽物だったようです。
つぎに信玄がやはり善光寺如来が焼失することを懼れ、どうやら今度こそ間違いなく本物の本尊を甲州へと移します。
その善光寺如来を甲斐の地で本尊として祀るため建立したのが、この甲斐善光寺です。

信玄はたいへん信仰心があつく心底善光寺如来が焼失することを懼れたのはたしかですが、本尊を甲斐の国に移すとともに、本家の信濃善光寺のいわゆる「門前町」もちゃっかり移転させ、おかげで当時このあたり一帯は甲州一の賑わいを見せるようになったということです。

本堂
本堂

善光寺如来のその後について書いておきます。
織田氏による武田氏滅亡におよんで総大将だった信忠(信長の嫡男)は善光寺如来を自領の岐阜城へ持ち帰ります。(次男の信雄が清州城へ持ちこんだとの説もあります)
ところが同年本能寺の変により信長、信忠がともに亡くなると、徳川家康のはたらきで翌年には善光寺如来はここ甲斐善光寺へいったんは戻されます。
それから10余年、権力を掌握した豊臣秀吉は京都に方広寺を建立し本尊として東大寺の大仏にまさる大大仏を造らせます。ところが慶長の大地震で大大仏は壊れてしまい、秀吉は側近からの入れ知恵でしょうが善光寺如来を方広寺の本尊として祀ることを命じます。
すると吉祥どころか秀吉はこのころから急に病みはじめ、祟りと怖れたのか善光寺如来にお帰りいただくことを祈念し、甲斐善光寺ではなく本家の信濃善光寺へと戻すことになります。

恵林寺

恵林寺は甲府市の中心街から20kmほど北東、いまの甲州市にある武田家の菩提寺です。
信玄は京をはじめ上方から高僧を恵林寺の住職として招きますが、なかでも美濃(いまの岐阜)の崇福寺から招かれた快川紹喜上人が有名です。

山門
山門に記された「滅却心頭火自涼」

織田信忠は武田勝頼を自害させ武田氏を滅亡させると、武田領の掃討をはじめます。
恵林寺については、かつて織田氏と抗戦し甲州まで逃げた武将がここに匿われているはずだと詰問し身柄を引き渡すよう要求します。しかし快川上人はここが浄域であることを理由に拒否。すると織田軍は快川上人ほか数十人の僧を山門の上に押し上げ下から火を放ちます。
これに先立ち信忠は諏訪大社にも火を放っているのでどうやら神仏専門の放火魔だったのかもしれません。

下から迫りくる炎と灼熱のなか、快川上人は「心頭滅却すれば自ずから火もまた涼し」と(仏の教えや徳をたたえる韻文)をとなえながら往生したということです。

三重塔
開山堂
庭園
武田信玄の墓

「心頭滅却すれば」の偈ですが、そもそもこれは快川上人のオリジナルではなく中国の書に記されたものです。また近年の研究では快川上人は燃え盛る山門上でこのような偈は唱えていないとも言われています。

もうひとつ追記しておきます。
平山優氏の『武田三代』を読んでいたらこの恵林寺山門炎上について触れている箇所がありました。
山門に押し上げられた僧侶のうち16人が決死の覚悟で山門上から飛び降り難を逃れたとのこと。そのとき山門をとりかこむ織田軍の兵たちは槍を地面にふせて僧たちが逃げてゆくのを見逃したということです。
ちょっと救われる話です。

見延山久遠寺

1571年、織田信長はかねてより仏門としての規律の退廃が目に余る比叡山が敵対する浅井・朝倉氏をかくまったこともあってついに全山焼き討ちの挙に出ます。
その報をきいた信玄は胸を痛め、比叡山(延暦寺)をそっくり甲州へ移すことを考えます。そのとき候補地になったのがいまの南巨摩郡身延町にある身延山の久遠寺であり、久遠寺には代替え地をあたえるのでそっくり堂宇をのこして移転してもらい、残された堂宇をそのまま使って延暦寺を再興しようと企図します。

巨大な山門
長い長い石階段をのぼる
(両脇に傾斜の異なる坂道もある)

当然と言えば当然ですが、久遠寺側はその要請に対して徹底抗戦もいとわぬ覚悟で拒絶します。
このとき信玄は、どこまで本当かはわかりませんが、比叡山を焼き尽くし屈服させた信長と、久遠寺から移転の要請を拒否されてなす術もない自分自身との実行力の差を嘆いたとも言われています。
1571年というと、信長38歳、浅井・朝倉や本願寺・一向宗徒など反対勢力に手を焼きながらも天下統一にむけて驀進していたころ。一方の信玄は50歳、当時ではすでに老境であり持病の労咳(肺結核)の症状も末期に近づき、それでいながら北条氏や上杉氏との諍いで西上(この場合は京にのぼり天下に号令する意)もままならず、ずいぶん焦っていたのでしょう。
このあたりは信玄の人間らしさがもっとも垣間見える時期です。

仏殿(左)、客殿(右奥)
仏殿より
祖師堂
祖師堂より本殿と五重塔
祖師堂にて
五重塔

信玄は自分の余命が残り少ないことを自覚し西上をよほど焦っていたのでしょう、翌1572年甲斐を発ち西へと進軍をはじめますが、その途上で(戦死ではなく)病没します。

信玄築石

本栖湖と精進湖をつなぐ場所に中央往還(という名の道)が通っており、中世には軍用道路として利用されていました。
その一部に「信玄築石」とよばれる溶岩をつみかさねた石垣のような防壁があります。どのような目的でつくられたのか判然とせず、もしかすると信玄とは関係ないかもしれません。(武田軍が富士の樹海をぬけて進軍したという記録はあります)

中央往環をあるく
樹海のなか人っ子ひとりいない / けっこう不気味
むかし富士山が噴火したさいの溶岩が散乱している
これが信玄築石とよばれるもの

棒道

信玄が信濃へ容易に軍を進めるため山を切り開いてつくった道が北杜市の平山郁夫シルクロード美術館の近くにいまも残っています。より速くすすめるよう棒のようにできるかぎり直線の道をつくっており棒道と呼ばれています。

これが現代の道
これが棒道
右側がゴルフ場になっておりイメージがわかない

さて信玄はなぜ英雄として記憶されたのか考えてみます。
ここでは甲斐の虎にたいして越後の龍と永遠のライバルのようにいわれた上杉謙信と比較してみます。
謙信はたしかに戦さに強いということでは唯一無二の存在かもしれません。みずから毘沙門天と称していたそうですが、けっして誇大とは思いません。
しかし謙信は自国に侵攻してくるものには抗戦しても、みずから打って出て領土をひろげる意志は持ち合わせていませんでした。信濃で信玄を迎え撃ったのは信濃の武将から援けをもとめられたゆえ。関東で北条氏と戦ったのは幕府から授かった関東管領の職をまっとうするため。

かりに謙信が平和主義者だったとしましょう。
喰うか喰われるかの戦国時代に平和主義の主君をありがたがる武将がどれほどいるでしょうか。このころの武将は戦さに勝って味方があらたな領土を手にし、自分が手柄をあげて土地を分け与えられることを求めて戦っていました。それゆえ「戦働き」という語があります。

謙信は治世も下手でした。
謙信の治世下では一向宗の一揆が続発していますが、信玄が謙信の動きを牽制するため縁故関係のある本願寺・顕如に要請して一向宗を駆り立てたというのは事実にしても、もし謙信の治世が民をやわらげ満たすものであれば一向宗とて一般の民なのですからそれほどたびたび暴発することはなかったはずです。

比較して甲斐の民は信玄の治世に(山国ゆえきびしい環境ながらも)満足していたのでしょう。
そして信玄がその武勇と武略で領土をひろげるたびに、従う自分たちもあらたに土地を与えられ豊かになります。しかも信玄の目がつねに都に向いていること、いずれは天下を取るであろうことを人々は理解し期待していたのでしょう。なんとも壮大な夢ではないですか。

信玄が偉人であったといえるか、そこはわかりません。
しかし信玄はたしかに英雄だったと断言できます。

【アクセス】車でまわる
【拝観料】恵林寺:500円(毎月12日のみ信玄公の墓を見学できる)、身延山久遠寺、甲斐善光寺:無料
【満足度】★★★★★(すべての合計として)