長宗我部元親が生まれ育ち飛躍した、岡豊城
【高知県・南国市、高知市、安芸市、四万十市 2026.9.29~10.1】
十七代当主・長宗我部友親氏の著書『秦氏の夢 長宗我部元親』によると、長宗我部家は秦氏の後裔であるとのこと。
秦氏は古代日本において養蚕や酒造さらには土木や製鉄などの技術をつたえた渡来系士族で、莫大な財と力を有していました。
その後裔といえば超名門ということになりますが、朝鮮から渡来した秦氏の秦(はた)は中国の秦(しん)と同字であることから秦氏の先祖は(中国)秦の始皇帝であるという突飛な説があります – – 当時の秦氏がそのように主張したようです。
この説はいまでは完全に否定とまでは言いませんが、疑問視されています。
ところが氏の著書には、秦の始皇帝からはじまり長宗我部家にいたる延々とした系譜図が掲載されています。
朝鮮渡来の秦氏の後裔と聞いた段階ではそれもあるかもと心惹かれたのですが、秦の始皇帝とまで話が拡大されるとどうなのかなあ?と興味が薄れました。
もっとも興味が薄れたというだけで断固と否定するつもりはないので、この著書については参考文献として読了しました。
岡豊城

右下の赤い横線が100m、ゆえ小ぶりな城であったことが案内図からもわかる
長宗我部という変わった姓については、土佐国長岡郡宗部(そがべ)郷に由来するとか。
土佐は室町時代には細川氏が守護をつとめていたものの、応仁の乱で細川氏の力が衰えると、地元の豪族たちが割拠するようになります。
そのなかでも本山氏、安芸氏、吉良氏、津野氏、大平氏、香宗我部氏、そして長宗我部氏が土佐七雄とよばれ土佐国の中部から東部で勢力争いをくりひろげます。
それとはべつに応仁の乱の戦火と混乱をさけて自身の領地(荘園)である土佐西部に移り住んだ公家の名門・一条氏(土佐一条氏)がおり、この氏が土佐国の盟主的存在として七雄の上に立っていました。

土佐七雄のなかで長宗我部氏はどうやらもっとも小身だったようです。
元親の祖父・長宗我部兼序が本山氏に攻められて自害、居城である岡豊城は落城。
嫡男で元親の父・国親は土佐一条氏にあずけられて成人し、その仲介もあって岡豊城にもどります。
(兼序は自害しておらずのちに本山氏と和睦して岡豊城主の座にもどったとの説もあります)
国親は婚姻関係をむすぶなどしてほかの豪族を味方につけると、満を持して本山氏に攻勢をかけますが、途上で病をえて無念にも死去します。










朝倉城

本山氏の本城は本山城ですが、勢力拡大とともにより便利な平野部に朝倉城を築きます。
元親は父・国親の遺志をついで本山氏を屈服させるべく攻め立てます。
ところで長宗我部元親については勇猛なイメージが先行していたのですが、むしろ臆病なほどに慎重な性格で、味方だけでなく敵方についても損害はできるだけ少なくすることを信条にしていたようです。
「一領具足」農民が平時は農作業に従事し、いざ合戦となると一領(ひとそろい)の具足(武器や防具)を携えて即時に出陣する、いわゆる「半農半兵」で兵をそろえていたため、戦で兵が死傷することは兵だけでなく農民も減ることを意味します。

そのため本山氏攻めの際にも力攻めはほどほどに、敵方の重臣を寝返らせ徐々に力を削いでゆくことに注力します。
ところで本山氏の重臣らがつぎつぎに寝返ったのは、臣従する本山氏の勢力の衰退だけでなく、長宗我部元親が国司の立場にある土佐一条氏と協力関係にあったことに危機感をだいたこともあったようです。
こうして本山氏は降伏し、元親は土佐中部を完全に掌握します。
安芸城



安芸氏の居城である安芸城は土佐東部にあります。
ネットで見ていると、元親が勢力拡大のために先に攻勢をかけたのではなく、長宗我部氏の膨張をこころよく思わない安芸氏の側から攻撃を仕掛けたとなっています。
どちらにしろ四国制覇を夢見る元親にとってはいずれ排除しなければならない安芸氏ですから、相手から突っかかってきたことにほくそ笑んだかもしれません。

元親が安芸城を落とした段取りもなかなか巧妙です。
まず大軍で(この時点で7000ほどの兵を動かしていたようです)城を包囲し、内通者を確保。
籠城が一か月近くになり敵方が心身ともに弱ってきたころを見計らい城内の内通者の手で井戸に毒を投げこませます。しかも多数の死者が出ないように「毒を投げ込ん裏切り者がいる」と言いひろめさせます。
城内は一気に混乱に陥り、まもなく開城します。
こうして元親は土佐東部も掌握します。
残るは一条氏の領する土佐西部。
中村城

古くは鎌倉時代から関白になれるのは藤原氏の嫡流である五摂家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)に限定されていました。
ここでいう土佐一条家とはその名門・一条家の系譜であり、前関白であった一条教房が応仁の乱の騒擾を逃れて当時一条家の荘園があった土佐に退避したのが土佐一条家のはじまりということになります。

これは公園の最上部にコンクリートでつくった資料館です。
かつて罪として死罪につぐ重刑が流罪でした。
その流罪にも軽重があり、軽いものから近流、中流、遠流、と区別されていました。
土佐はもっとも重い(厳しい)、遠流の地です。
その遠流先に指定されるほどの隔絶された土地に、前関白がみずから移り住んだのですから、土佐の人々にとっては「正視すると目がつぶれる」ぐらいに畏れ多い存在だったはずです。
元親としても軽々しく土佐一条家を討つことはできません。
名門とはいえ少々出来の悪い一条兼定が当主のときに内訌(うちわもめ)がおきます。この内訌をおこすように元親の策略があったとも言われていますが真偽は不明。
京から本家の当主が下向し合議のすえ兼定は出家して隠居。その嫡子が跡を継ぎますが、どのような裏技をつかったのか元親はその跡継ぎに自分の娘を嫁がせ、これにて土佐一条家の実権もにぎり土佐全土を掌握します。
土佐一国から四国制覇に乗り出しほぼ完全に四国全土を掌握したちょうどその時に、信長の覇業をついだ秀吉によって横槍が入り、土佐一国に戻るのでなければ征伐すると恫喝されます、我が夢をつぶされるぐらいならば最後に意地を見せてやろうと死を覚悟して決戦に挑むものの、量的にも質的にも戦力の絶望的な差に勝ち目はないことを訴える家臣たちの必死の献言についに折れ、秀吉のまえに膝を屈するのはその後のはなし。
司馬遼太郎氏が長宗我部元親を主人公にえがいた小説のタイトル『夏草の賦』は松尾芭蕉の俳句「夏草や 兵どもが 夢の跡」になぞらえたものだそうです。
芭蕉は奥州藤原氏がほろんだ平泉を訪ね、かつて英雄たちが飛躍したことを生命力のつよい夏草(の成長)にたとえ、その夏草だけが茂る茫漠とした風景にすべてのものがいずれ消え去る世の儚さを想ったのでしょう。
【アクセス】レンタカーで回る
【満足度】★★★☆☆





