九度山で真田幸村、あとは京大坂道をあるいて高野山へ

【和歌山県・九度山町~橋本市~高野町 2026.9.13】
今日は久しぶりに青空がひろがりました。
それでは山登りにいこうかと気持ちは逸るのですが、ここのところ連日のように雨が降りつづいていることを思うと、土砂崩れまではいかなくても路肩崩れの危険がないとは言えません。
私は君子ではありませんが好き好んで危険には近づきたくないので、今日のところは登山道をあるく山登りは止め。
いわゆる林道とか生活道路をあるく山歩きに予定変更します。

真田幸村(信繁)に関して高野山での蟄居時代のことを確認するため九度山(町)に行きたいと思っていました。とは言ってもそれほど時間はかかりません。
九度山から学文路かむろはすぐ近く。京大坂から南へのびる東・中・西高野街道はいまの河内長野で合流して京大坂道(あるいは本街道)と名をかえて高野山へとむかいますが、紀ノ川をわたり街道がにわかに坂道となり高度をあげてゆく始まりが学文路の地にあたります。この京大阪道を歩きます。
学文路(かむろ)の名の由来ですが、高野山へ向かうことから「学問の路」とも考えられますが、「かむろ」は「神室 / 神がやどる岩室」とも書けば、「禿」とも書くし、正解はわかりません。
※もし高野山が近いので僧侶が多いゆえに、坊主頭 ➡ 禿 ➡ かむろ、と推理したとすればそれは間違い。坊主頭は僧侶が自分の意思で選んだヘアースタイル(?)であるのに対して、禿は私をふくめた多くの中高年男性が抗いながらも意思とは関係なくそこにたどりつく避けがたいヘアースタイルという違いがあります。

そういえば、真田幸村は九度山での蟄居時代に、「近ごろは髪も抜けるし歯も抜ける」と愚痴る手紙を書き送っていたとか。
大坂夏の陣で没したのが48歳くらいですから時代の差なのか老化がすこし早いとは感じますが、それはともかくテレビドラマや映画に出てくる幸村の前頂部が大きく禿げ上がり前歯が2本ばかり抜け落ちていたら幸村ファンはさぞかしショックでしょう。

(幸村は後世の軍記物でつかわれた呼び名であって、正しくは「信繁」。信繁が生前にみずから幸村と名乗った史実はありませんが、いまでは通称となっているためここでは幸村で通します)

九度山

九度山駅 / 随所に六文銭の旗印
真田古墳
大坂城まで続いている抜け道というのは伝説というより夢物語の類でしょう。実際には古代の横穴式古墳で5mほど先で行きどまり。
ならばなぜ「真田古墳」と呼ぶのか?それこそ謎です。
九度山で真田一家が蟄居した屋敷跡と伝わる場所。
いまは高野山真言宗の善名称院が建つ・通称「真田庵」
寺の一隅に幸村の父(昌幸)を祀る真田地主大権現の社がある。
この鳥居の扁額(へんがく)にも六文銭。

真田家の家紋は六文銭、その意味するところは三途さんずの川の渡し賃(冥銭めいせん)として死者の棺桶に入れて埋葬していた習慣に因ります。すなわち「不惜身命ふしゃくしんみょう」目的を遂げるためには命も惜しまないという覚悟を示したもの。
武士としての潔さを表すものとして、数ある大名の家紋のなかでも人気度でいえばトップクラスでしょう。

それは良いとして、真田幸村と父・昌幸は関ヶ原の役で西軍に味方して敗戦後は家康からいったんは死罪を申し渡された身。幸村の兄(すなわち昌幸の長男)である信之と、その舅であり徳川家の重臣でもある本多忠勝による命がけの嘆願でなんとか高野山への追放で許され蟄居しているのですからその際に六文銭の家紋をどこであれ掲げるはずがありません。
むしろ家系を残すために東軍についた信之こそ旗印として六文銭を掲げるべきで、現に幸村・昌幸が蟄居しているあいだも信之は六文銭を家紋として使っていました。

真田ミュージアム入口
真田大助は幸村の長男
ジオラマで復元した真田丸
九度山駅のある左手から丹生川をわたって九度山の街へ入る

九度山は高野山をかこむ山々を源とする丹生川にゅうがわによって北・東・南の三方を囲まれた天然の要害ともいえる地理的条件をそなえています。
昌幸は九度山での蟄居生活を強いられていた当初はまだ血気盛んだったのか、自分たちは追放されたのではないここに難攻不落の城を築くために移り住んだのだと強がっていたとか。
たしかに難攻不落の城は、それだけの資金と人手があれば築けたかもしれませんが、現実には日々の飲み食いにも不自由することがあったようです。

ところで真田紐を織ってその売り上げで糊口をしのいでいたという俗説はずいぶん怪しいようですが、真田紐を行商人に売り歩かせ自らは九度山の僻地に幽閉されながら諸国の情報を集めていたとの説には興味をひかれました。

さて九度山を去るにあたってもうひとつ。
幸村と言えば、「真田の赤備え」が有名です。これは昌幸とその父(すなわち幸村の祖父)幸隆がつかえた武田家の赤備え(騎馬隊)を模倣したものでしょう。
模倣するとはいっても、その赤で統一するほどに塗りまくる顔料がなければ絵にかいた餅。
ところがその赤の顔料が九度山には豊富にありました。丹生川の丹(に / たん)は赤の顔料のこと。丹を産出する土地をむかしから丹生と呼称し、かならず鳥居も社も玉垣もすべて赤く(朱く)塗られた丹生○○神社があります。
九度山周辺には3社も4社もあります。
(丹生神社については下記のブログで書きました)
『高野山、今日は三谷坂をのぼって丹生神社をまわる』https://yamasan-aruku.com/aruku-273/

学文路

九度山から2kmほど東へ歩いて学文路へ。
南海電車の鉄道をわたると坂道にかわります。
西光寺 / 別名は学文路苅萱堂(かむろかるかやどう)
柿畑のあいだを抜けるように歩く
(九度山をふくむ高野山北側は富有柿の産地)
九度山方面を振りかえる

河根~神谷

峠を一つ越えると集落が見えてきました
(前方奥の稜線が高野三山)
千石橋をわたる
当時ここに橋を架けるのに千石の米に相当する費用がかかったのが橋の名の由来
京大坂道はいまではすべて舗装路です。
危険個所はありませんが、そこそこの急勾配はあります。
(そのまま進めば)「高野山女人堂」、(戻れば)「右 京大坂」と示す石碑

極楽橋~不動坂

ずいぶん近くに高野三山の峰々が見えてきました
終点の極楽橋駅へとつづく南海電車の線路が下に見える
高野山へはこの極楽橋を渡ります
(橋をわたらず直進すると極楽橋駅)
不動坂も道幅は狭くなるものの舗装路です。
極楽橋駅と山上の高野山駅をむすぶケーブルカーが側らを走る。
(高野山駅は高野山の要所をむすぶバスの発着所があるだけで登山客には使い勝手がよくありません)
清不動堂
視界が開けた場所がありました。
中央やや右寄りが高野三山のひとつ転軸山

高野山という山は存在しません。
「高野」は周囲を山々に囲まれた平地部分を差し、「高野山」はそこに建てられた寺の山号です。すなわち高野山=金剛峯寺ともいえるし、いまでは金剛峯寺のある寺町一帯が地名として「高野山」とよばれています。

その高野山の北東部をかこむのが高野三山の稜線で、西に転軸山、北に楊柳山、東に摩尼山がならびます。
高野三山については下記のブログで書いています。
『高野山奥の院をあるき、高野三山にのぼる』
https://yamasan-aruku.com/aruku-163/

女人堂~蓮華定院

女人堂が見えてきました。ここが不動坂および京大坂道の終点です。
かつて高野山は女人の立ち入りが禁じられていたため、ここが女人結界の標となります。
すなわち女人はこの手前まで参詣して女人堂で礼拝していました。
 女人堂から300mで蓮華定院
門前の提灯に六文銭

蓮華定院れんげじょういんは以前から真田家と宿坊の契約をむすんでいた関係で、真田父子が高野山へ追放ときまった折にはまずここで蟄居生活をはじめます。
その後(数か月後)、高野山は女人禁制のため妻子とともに暮らせないことを危惧し蓮華定院の心遣いで九度山に移り住むことになったということです。

いわゆる関ヶ原の役では、昌幸・信繁父子は関ヶ原へ参戦したのではなく信州の居城である上田城に3千の兵で籠り、徳川秀忠(家康の嫡子、徳川2代将軍)率いる徳川本体3万8千の兵を、先ずは降伏開城するのでお待ちくだされと足止めします。
その後ものらりくらりと時間稼ぎをし、挑発にのって攻め込んでくるや引いては隘路に誘い込んで殲滅し、敵が引くと見るやあらかじめせき止めておいた河の水を放流して敵兵を溺死させ、さんざんに打ち破ります。
なにしろ兵力差が10倍以上ですから壊滅的な打撃を与えるまでには至りませんでしたが、秀忠ひきいる徳川本体は真田のこの作戦に翻弄されとうとう肝心の関ヶ原での戦いに遅れてしまうという失態をさらします。

このことがあったがゆえに、家康も苦渋を飲まされた真田(とくに昌幸)には怒りを覚えていましたが、秀忠が真田家に抱く怨みは尋常なものではなかったようです。
死罪をまぬがれて高野山への追放に減刑されたこと、さらに蟄居とはいえ妻子とともに暮らせるよう手加減されたのも、すべて家康が決めたことゆえです。

【アクセス】南海・九度山駅~真田関連施設は徒歩圏内
【入場料】真田ミュージアム:500円

【アクセス】学文路(駅)~河根~神谷~極楽橋~(不動坂)~女人堂~蓮華定院~女人堂~極楽橋駅 / 4時間50分、23000歩
【満足度】★★★☆☆(横にならんで友人知人と喋りながら歩くには最適ですが、山登り山歩きそのものを楽しみたい方には物足りないでしょう)
【難易度・体力】★★☆☆☆
【難易度・技術】★☆☆☆☆